2013年6月18日火曜日

麻布の祐天上人


増上寺三十六世法主であった祐天上人は江戸期最大の呪術師ともいわれています。
曲亭馬琴の新累解脱物語、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などに語り継がれている怨霊「累」を成仏させた祐天上人の呪術は密教僧ではないにもかかわらず江戸期最強といわれています。

明顕山 祐天寺
この祐天上人が飯沼弘経寺住職、小石川伝通院住職を経て将軍家宣の台命により増上寺三十六世法主に栄進、即席大僧正に任ぜらるのは正徳元(1711)年十二月のことでした。
しかし増上寺住職を拝命したとき祐天はすでに七十五才となっており、その就任は名誉職的な要素が強かったものと思われます。
そして、増上寺法主を二年間つとめた正徳三(1713)年十二月、祐天上人は将軍家継に隠居を願い出ますが却下されてしまいます。しかし翌正徳四(1714)年六月、やっと将軍から隠居が認められました。しかし、隠居所である麻布一本松の増上寺隠居所が改修工事中であったため祐天上人は、やむなく増上寺塔頭真常院に仮移転し仮の隠居所としました。

そして正徳四(1714)年八月二九日、祐天上人は改修工事が終った一本松増上寺隠居所に移り隠棲することとなります。ここを隠棲の地と決め静かに余生を過ごしていた祐天上人ですが、一本松隠棲から三年後の享保二(1717)年二月十二日、祐天上人の次の第三十七代法主となった詮察上人が病気により引退し、一本松隠居所で隠棲することとなりました。これに遠慮した祐天上人は、同二月十四日、自分の弟子であった寂天が住職を務める芝西応寺に移転します。
祐天寺解説板
そして同年六月十八日、新たに隠棲の地を求め麻布龍土町に禅室をつくり弟子と共に移ります。この禅室は土地千二百五十四坪、建坪二百六十坪という大きな物であったそうです。

この禅室で平穏に暮らした祐天上人も移転の翌年、享保三(1718)年六月に病を発し寝込むことが多くなりました。そして同享保三(1718)年七月十五日、弟子に看取られながら臨終を迎えます。
そして翌享保四(1718)年二月二十七日、弟子の祐海が師の祐天上人の意に沿って建立した善久院(後の祐天寺)に埋葬するための葬列が龍土町禅室を出発し、竜土町から四の橋をへて目黒の善久院へと向かいます。
この葬列について「祐天寺の開創(一)祐天上人真像晋山」には、

早朝五時(八時)、龍土町を発った行列百余名は、御薬園橋より白金台町行人坂へ出て、さらに目黒の紅葉の茶屋を経て大島明神の前通り、ここからさらに下村正覚寺にかかり、やがて善久院へ着到、表門より行列は境内に入った。
道中、行列は祐海を初めとする僧衆が、おごそかに衣に身をつつみ、ゆるやかに行道した。先乗りは、宝松院、その左右に足軽が二人、次に提香炉を持つ弁瑞と雄弁、あとにそれぞれ所化五人、次に右に檀的、利億、官隆、祐意、南嶺、観冏、祐億、左に随音、天歴、祐吟、林碩、秀音、在胤、春貞、中央に、祐天上人の真像、舎利、舌根、すぐうしろに、香誉祐海、その左右に、伴僧おのおの二人、次に祐益、祐達、侍四人と小者一人、左右に足軽がそれぞれ一人、次に、増上寺役者円龍和尚、同じく安養院、学頭の利天和尚、了槃和尚、春林寺、新光明寺、大信寺、正源寺、本願寺、清巖寺、法音寺、さらにあとに、寺社方大八木玄隆、手嶋真西、桜井金右衛門、川井七兵ヱ、加藤善次郎、大仏師竹崎石見、世話人永井三右衛門、次に、押馬上に小笠原喜之丞、しんがりは、胴勢、若党、挟箱、小者、合羽箱、堤灯待ちとつづいた。
祐天寺境内の累塚
この他には、浄土宗の僧ばかりか、他宗の僧そして江戸市中の人人までも、その行列につき従い、供のものその数おびただしく、あまつさえ、道に出て行列を拝む老若男女が限りないほどである。
途次、その慶固には、高松中将より小笠原喜之丞同組の足軽二十余人の供養があり、また、芝西応寺、月界院、大奥との連絡係りおか祢姥は先に善久院にて行列を待ち、昼九時、百余人の行列は当山に入った。
 


としています。
この葬列の道中についてあくまでも私の想像ですが、龍土町禅室から四の橋を経て目黒までの道中、龍土町禅室から四の橋に至る行程では暗闇坂を上り、一本松増上寺隠居所前を通過または一端停止の上隠居所僧たちの読経を受けたのではと考えています。またこの道は古奥州道ともいわれ古来よりの往還でもあり、また龍土町から四の橋までの最短距離はこの道であるとのことからも、一本松隠居所前の葬列通過は考えられ得る行程かと思われます。そして享保八(1723)年1月13日、祐天上人が埋葬された善久院は晴れて祐天寺の寺号が正式に許可されます。


累塚
またこの祐天上人も短期間隠棲した一本松増上寺隠居所ですが、 そもそもこの場所は麻布氷川神社の社地でした。しかし萬治二(1659)年幕命により増上寺隠居所となり麻布氷川神社は現在の社地に移転を余儀なくされます。この増上寺隠居所設置の直接的な原因は明暦の大火による江戸再配置ということになるのでしょうが、実はこのあたりと増上寺には因縁があります。慶長五(1600)年に行われた関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城攻めの際に落とされた守城側の首が続々と江戸に運び込まれ、首実検の後に首塚が建立され麻布が原に埋葬されたといわれています。その場所は一本松とも西町付近ともいわれていますが、首塚の建立にあたっての仏事を取り仕切ったのは増上寺十二世法主で徳川家との縁を開いた貞蓮社源誉存応だといわれています。

もしこの首塚と増上寺隠居所設置が関係しているのであれば、善福寺麻布氷川神社などと共に首塚を取り囲み、結界を作成したのでしょうか?そしてそれはおそらく鎮魂または怨霊の調伏ではないかと想像します。
いづれにせよ、祐天上人も過ごしたこの麻布一本松増上寺隠居所は時の最も高名な僧が隠棲していたことに間違いはありません。



累解説板