2012年10月17日水曜日

講談「狸穴の婚礼」

現在の狸穴坂
講談に「狸穴の婚礼」という噺があります。それによると、

麻布村に「狸穴」という穴があった。この穴は品川の御殿山から四谷まで続いていたそうで、この穴の中に住む数千のタヌキが田畑を荒らしたり、子供を取ったりして付近の百姓を苦しめていたという。
徳川家康が江戸入府したときに家臣の井伊直政はこの噂を聞きつけ、家老の豪傑(ごうけつ)奄原助左右衛門(いおはら・すけざえもん)にタヌキ退治を命じた。助左右衛門が麻布村の狸穴に50人の家来を連れて入ってゆくと、やがて美少年が現れ助左右衛門を主人の御殿に案内した。

美少年の主人は婚礼の儀式の最中で助左右衛門にも酒を勧めた。家臣たちは怖がって誰も手を付けなかったが、助左右衛門は気にせずに呑んだ。しかしやがて酔いを発した助左右衛門が寝入ってしまうと館の主人がその枕元に立ち、「俺は狸穴の主人だ。こしゃくな奴だがその方の剛胆に免じて、今日はこのまま帰してやる。江戸も騒がしくなったのでまもなく引っ越すから、退治は無用」といったが、目の覚めた助左右衛門は、「今日は主人の命令でお前を退治しにきた。」というと
持っていた刀を抜き打ちに斬りつけた。すると今までいた御殿は一面の炎とともにかき消え、主人も消えた。そして炎の中から数百のタヌキが助左右衛門に飛びかかり、助左右衛門は刀を抜いて戦った。やがて「御家老さま、如何しました?」という家来の声で気がつき、辺りを見回すと、すべては夢であった。

明治期の狸穴坂
「恐ろしい奴らだ」と穴から出て陣屋に帰ると、その後、天正18年8月10日、麻布一帯に家なり・地響きが起こったので助左右衛門は地鳴りの原因を狸穴のタヌキと考えて数百の家臣を連れて穴の前に行ってみると、狸穴のタヌキが行列をなして引越しの最中であった。

そこで助左右衛門はためらわずに鉄砲を撃ちかけ、すべてタヌキを退治してしまった。その後麻布は家も増えて立派な町になったが、あの時に退治された子ダヌキがたった一匹残り、ネコの父で育てられた。このタヌキが長じて近所の人に害をなし、そのタヌキが
退治されると今度はネコが仇をなし、続いて鼠が害をなすという麻布七不思議『我善坊の猫又』への因縁がからんでくる。

として狸穴の狸と我善坊の猫又の因縁を記しています。この講談「狸穴の婚礼」は、おそらく明治31(1898)年刊行の講談速記本「江戸名物麻布七不思議」に記載された噺を底本として復活させたものと思われますが、その内容は「江戸名物麻布七不思議」の序盤を語っています。


○講談「江戸名物麻布七不思議」

家康の江戸入国時、麻布に陣をはった井伊直政に近隣の百姓が「狸穴の怪物」の害を訴え出る。そこで井伊直政の家臣奄原助右衛門(いおはら・すけえもん)が狸穴洞窟中の城で狸の首領の婚礼 を見る。そして奄原助右衛門はこの狸の行列を退治する。

これを家康は大いに喜び江戸が開ける発端となる。しかし首領狸の忘れ形見が徳川家に祟りをなし、六代家宣の頃、麻布狸穴能勢豊後守邸に出没した狸の怪物を友人勝田備後守が仕留める。災いを恐れた能勢家は「狸の怪物」を庭に埋め、その上に稲荷を祭った。しかし怪物は土中で生きながらえて小猫を育て上げ、育てられた猫は「大黒坂の猫又」となって次々に人を襲った。この猫又は内田正九郎を苦しめた後に「我善坊谷の鼠」と戦い、敗れて死ぬ。そして近所の蕎麦屋・佐兵衛が猫又の死骸を「狸塚」として埋葬する。
(DEEP AZABU注:埋めた場所は広尾が原ともいわれます)その後蕎麦屋は評判となり「狸蕎麦」として繁盛した。

麻布谷町の旗本星野源右衛門は、吉原の花魁花衣を妻にし、毎晩遊女の格好をさせたので、谷町の遊女屋敷と呼ばれることになる。

しかし星野源右衛門は鼠に足を食われたのが原因で死に、怪猫の次は大鼠の被害が広がったことから内田正九郎が今度は大鼠退治を命じられる。

怪しい赤ん坊の声で評判の二本松のある松平右近の屋敷を吟味する最中、狐につきまつわれる。江戸を離れ、海賊や熱海神社の天狗退治をして戻った内田正九郎は、白金御殿の一本足の怪物もしとめる。我善坊谷の鼠の怪異が続くので、正九郎は将軍の命をうけ、ついに退治に成功する。




麻布七不思議『我善坊の猫又』


老舗萬屋
江戸の頃、麻布の我善坊に万(萬)屋という質屋があり、主人の娘おたまと番頭の長次郎は相愛の仲でした。
と言っても恋文をやりとりするだけの清い恋愛でした。しかし、ある夜おたまの寝所に長次郎が忍んで行き割ない仲となります。

幸せが続いた2ヶ月目のある夜、いつものように寝所に忍び込んでおたまを引き寄せたとき、突然何かが長次郎に飛びつきました。
驚いたおたまの悲鳴で両親と家人が駆けつけると、おたまの寝所でその家の猫と大ねずみが格闘していました。やがて大ねずみが
猫の喉をかみ切り勝負がつき、猫の死骸をみると長次郎の着物をきていました。古くから家に住み着いていた猫が恩をわすれ化け猫となって長次郎になりすましていたものを、やはり古くから住み着いていた大ねずみが忘恩に憤慨して挑みかかったのでした。

その後おたまは、猫と同じ声で泣く赤ん坊を産み落とし、江戸の評判になったといわれます。ちなみに猫又とは怪猫、化け猫の事で、猫が年をとると尾が二股になり怪をなす事からきているようです。「安斎随筆」「本朝食鑑」などによると老猫の雄が怪をなして人を食うのが猫又で、純黄の毛の猫と純黒の猫がもっとも妖をなすとあります。




麻布狸穴町の住居表示

この狸穴坂近辺は永坂町と隣接し、区内で唯一住居表示の変更が行われなかった場所です。 港区は昭和37年に国会で制定された「住居表示に関する法律」に従ってそれまでの「麻布」を冠した45あまりの町名を変更しました。

これにより 「麻布狸穴町」「麻布永坂町」の二つ以外の総ての町名が 宮村町→元麻布2、3丁目、日ヶ窪→六本木六丁目など安易な住居表示に変更 されました。しかし、この近辺では住民による町名変更反対運動があり、永坂町に住む松山善三・高峰秀子夫妻やブリヂストンの石橋正次郎、狸穴町の木内信胤らが中心となり変更を拒んだそうです。 これにより港区では区内の住居表示変更を完遂することが出来ず、現在もその達成率は97.4%となっているようです。この地域は、現在も住居表示が「麻布狸穴町」「麻布永坂町」と麻布を冠しており、江戸期から続く由緒ある町名が守られている貴重な地域であるといえます。












DEEP AZBU 落語
http://deepazabu.main.jp/m1/rakugo/rakugo.html

麻布七不思議ー狸穴の古洞
http://deepazabu.main.jp/m1/7fusigi/7fusigi6.html

むかし、むかし-我善坊の猫又
http://deepazabu.main.jp/m1/mukasi/mukasi.html#21








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