2012年10月10日水曜日

アサップル伝説

麻布と言う地名は、”麻の産地でありまた調布へと献上する麻織物もさかんであった。”というの説が有力なのでしょうが、麻布三十二ヶ村・麻布十六ヶ村といわれた時代を経て、江戸中期(正徳年間ころ)までは、阿佐布、麻生、浅府、安座部、などと多様に書き表されていたようです。
これは、地名の意味が分からず当て字のためと思われ、昭和期の郷土史研究家の稲垣利吉氏は、アザブとは縄文期先住民(アイヌ)の言葉が語源ではないかと言う説を自著「十番わがふるさと」で披露しています。その部分を要約すると、






太古の昔、十番あたりまでは海であった。東京湾に突き出ている芝公園の高台より飯倉、狸穴、  鳥居坂、日ケ窪、麻布山麓、仙台坂と続く半島と、三田山、ぎょらん坂、三光町、恵比寿、天現寺まで続く半島に囲まれた内海は、海草が繁殖し、小魚の天国であったので、早くから人が住みついたと思われる。
そしてそこには、石器時代からの民とアイヌの人たちが仲良く住んでいた。(麻布山にも貝塚があったらしい。)当時内海には、小島が点在し、又半島を横切るために船や筏にようなものが多く使われていたと思われ、それにより狩や、物々交換を行っていた。こうして船で渡る事をアイヌ語で、
縄文海進で海抜が10m
高かったころの麻布中央部
アサップル

と呼んだ。
「向こう岸の三田山(三田段丘)は聖坂まで海水が来て一個の独立した孤島であった。この島に美しいピリカ(乙女)が多数いたので多くの若者がアサップルしていく事は、若衆の唯一の楽しみで、物交も楽しいがそれ以上に楽しい事であった。」

とあります。




このアザブ・アイヌ語説は、稲垣利吉氏の他にも大正時代麻布生まれの鬼集家で宮武外骨に私淑した蒐集家で大衆文化研究家の「池田文痴庵」がアサップル(アイヌ語で渡るの意)説を説いているようです。


元麻布3丁目麻布消防署付近
上空から見た三田段丘
ただし、アサップルという言葉はアイヌで現存しておらず、「渡るの意」という解釈は想像の域を出ていません。
この他、続地名語源辞典によると「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明ですが「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込んでいた時代につけられた名」とあり、
asamの類似地名では、

  •   青森市・浅虫温泉--アサム・ウシ(湾奥にある所)
  •   岩手県岩泉町・浅内--アサム・ナイ(奥の沢)
  •   浅間山--アサム・ムイ(奥地の山)




などがみられます。 そして、さらに調べてみると北海道には「麻布」に類似した地名が数箇所あり、
◆麻布町於尋麻布(おたずねまっぷ) 

  
縄文海進の三田段丘
と麻布側武蔵野台地端
知西別川「(ちにしべつがわ)羅臼の南にある。」から3キロ南に精神川があり、
地名は麻布で ある。      
昔この川はたるなっていたが、後に略して麻布(まっぷ)と呼ばれたが現在では東京の
地名と 同じく「あざぶ」と読み、麻布町となった。精神川は白濁した川であったので他所と
同じく魚のいない川の意味でつけられた。


 



◆麻生
アサブ。札幌都心北西部にある地名で、亜麻産業発祥の地。通過している地下鉄も
東京と同じ「南北線」。




麻布中央部の起伏







◆発寒

    札幌市西区の川名。ハツシヤフ、ハツサフ、ハチヤム。桜鳥の多く住む川の意で他に
葡萄の傍、潅木の傍の意



◆厚沢部

    アッサブ。檜山支庁の町名。ハッチャムベツ(桜鳥・川)の意。発寒と同義。








現在の高低地図を8~10m
で水没させた想像図
などでこれらから「縄文人=アイヌ人」であったとすると、本村町南斜面、がま池周辺、麻布高校周辺、善福寺など麻布でも住居跡が多数発掘されているので信憑性があると思われます。






この他にも定説ではありませんが、東京の地名でアイヌ語が語源となっているといわれる地名は、
  • 江戸--イト(岬)
  • 渋谷--シンプイ・ヤ(泉の岸)
  • 目黒--「清く深い水の流れに住む衆」と言う意。
  • 阿佐ヶ谷-- atui samkaya 海へ下る岡の意。
  • 山谷-- samkaya 下る岡。
  • 浅草-- stukushi 海を越す。
  • 日比谷-- pipiya 小石だらけの土地。
  • 野毛--ノッ・ケイ(あご状に突き出た・頭、岬)
  • 広尾 ピルイ(転がる石)、ビロロ(陰)。

などもあり、縄文期の波打ち際であった麻布辺を想像してみるのも楽しいかもしれません。



中世期の江戸。下方青色が
胃袋状の池であった「古川」




<はてなキーワードから引用>

池田文痴庵


 大衆文化資料蒐集家、研究家。明治34年~昭和47年。東京市麻布区森元町生まれ。本名、信一。

明治薬学専門学校卒業。海軍造船廠を退職後に、森永製菓勤務。社史の編纂等に従事。かたわら、東京高等製菓学校で教鞭をとり、校長にもなった。

「生まれながらの雑学好き」と自ら語ったように、なみはずれた好奇心と蒐集癖を持っていた。小学校時代、学用品の筆と墨に興味を持ち、蒐集をはじめている。蒐集観は「今日在って明日なくなるものの命永かれ」。

関東大震災を契機に、江戸後期からの大衆文化資料の蒐集を開始し、個人雑誌「冥福」を刊行。のち、池田文化史料研究所を主催し、庶民文化の研究に従事した。

宮武外骨に私淑し、『冥福』誌では、外骨と不可解な対談をしている。

戦前麻布にあったコレクションは昭和20年5月24日の東京空襲で失われた。その後浦和に移り、生涯コレクションは続けられた。

著書『日本洋菓子史』『羅毎連多雑考』(ラブレターコレクションを扱ったかった本)『キャラメル芸術』『森羅万象録』(結婚式時に引き出物として配布された個人史・雑学集)などがある。




<引用終わり>