2012年10月29日月曜日

幻の山水舎ラムネ瓶

今年の夏頃に麻布山地下壕の取材で宮村町情報を探していたところ、
ネットで不思議なサイトにたどり着きました。

<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
そのサイトにはラムネ瓶の画像が掲載されていたのですが、よく見ると「山水 子供飲料」と書かれており、裏には「登録 山水舎」とありました。しかし、それでも何で宮村町なんだ?っと考えているうちに、あれ、これってあの宮村町の山水舎さん?っと気がつきました。掲載月日が2008年4月4日。あれ?今年だ。そして記事を読むとなんと、現在は造られていない山水舎ラムネ瓶が発見されたいきさつが書かれていました。

記事によると、

         砂の中から壜底が顔を出していた。どうせ欠片だろうと思いながら蹴飛ばすと、ボロリと壜が
        姿を現した。~

とあり、神奈川県横須賀市のとある海岸を散策中に、偶然砂の中から顔を出していた物のようです。その後発見者の尚nao.氏は山水舎に連絡を取って取材し、瓶の詳細を山水舎社長のS氏から聞いた顛末が記されていました。 この記事を読んでさっそく当方のネタとして使用させて頂く許可を取ろうとブログ内を探したが、残念ながら尚nao.氏のメールアドレスは記されておらず、さらに調べるとGoogleのキャッシュにこのブログの元ページが入っており、そこには氏のメールアドレスが記されていました。そこで、早速連絡を取りましたが、残念ながら氏からのお返事は頂けませんでした。これはよくあることなのですが、特にキャッシュに入っているサイトなどは現在は更新されておらず、連絡先も現在は使われていないものがほとんどなので、「無理もない」っと、しばらくは忘れ去っていました。

夏が終わり9月半ばの麻布の秋祭りの頃、御輿の取材で麻布を訪れたおり、いっしょに巡回することにしていた同級生のK君が急に御輿を担ぐ事になりました。そこで地元宮村町の御輿にくっついて十番~六本木ヒルズ~宮村町内~麻布氷川神社~パティオと廻って町会のお神酒所に戻ると、ただくっついて廻っただけの私たちにも振舞い酒が供され、遠慮しつつも?ありがたく頂戴していました。するとそこに、宮村町会長でもある山水舎のS社長が見えたので、この際とばかりに「麻布山地下壕」の取材を御願いしたところ、快くお受け頂きました。

後日山水舎にお伺いし、地下壕の貴重な体験を伺ったあとに、サイトに記されていた瓶の話と画像をお見せしたところ「ああ、この方なら連絡があったよ」っと、覚えておられました。そのときに伺った山水舎社長S氏のお話しは、



<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
氏の祖父が横浜のラムネ工場を見学し、帰宅後に自分も起業しようと当時湧き水が豊富であった当地に1901(明治34)年工場を設立され、映画館、軍などにも納品していた。そして関東大震災当時は麻布辺はあまり被害を受けなかったが、それでも半壊や損傷家屋などもあり、その罹災者に無料でラムネを配った。

その後、山水舎のラムネは大繁盛となり、近隣主婦のパートさんなどを雇用して夜を徹してのフル回転操業も行っていた。しかしやがて100社以上の類似商品が出回り、経営にはご苦労もされたようで、特に戦時中は砂糖の不足から開店休業状態となり昭和20年には罹災して工場内に大量にあったラムネ瓶も、高温で解けて塊になったとのこと。終戦後、その処理に困り土中に埋めたが、数年後、解けたガラスが売買できる事を知って、残念がった。とのこと。戦後も営業は継続されたが、1960年代新たに日本に進出してきたコカコーラ芝浦工場を見学し、その生産能力と冷蔵設備付きの販売機を見て太刀打ちできない事を悟ったという。山水舎もラムネ以外にオリジナルコーラなども販売したようだが、ついに廃業を決意された。ラムネの販売は昭和36年頃に打ち切った。ラムネ瓶は戦前しか生産されていない。そして戦後業者に引き取って貰ったので現在手元には1本も残されていない。また、この工場倉庫跡に1976(昭和51)年に寺山修司の天井桟敷館が渋谷から移転した。

などと伺いました。
これらをまとめて早速DEEP AZABUへの掲載をと思いましたが、やはり瓶の画像がないとリアリティがないと考え直し、ラムネ掲載を再び封印してしまいました。

そして昨日、ラムネ瓶が掲載されたブログを久しぶりに訪問し、画像を見ているうちにやはりどうしてもあの瓶を掲載したいの思いから、ブログに書き込んでみました。するとその日の中にブログ管理者で瓶拾得者の尚nao.氏から連絡があり、快く転載の御許可を頂くことができました。(最初からそうすれば良かった..(^^;)

瓶は昨年夏(2007年)氏がよく訪れる海岸で拾われたそうで、

昔捨てられた古い陶器やガラスの欠片が落ちているので、興味を持ってよく歩いているとのこと。発見した日は台風の影響の強い雨が降った後で海も荒れていたので、こういうときは、雨や波で海岸や海底から埋まっていたものが現れることが多い。とのこと。また、ラムネ壜など、昔のガラス壜で海岸に捨てられたものは、割れてしまっているのがほとんどで、まず完品であること自体が珍しいこと。しかも、あのように文字のエンボス(浮き彫り)があり、滑り止めと思われる細かい凸凹があるなど、手の込んだ作りをした壜はかなり古いものである可能性が高く、拾い上げたときにこれはすごいものだと直感した。


と、頂いたメールに記されてありました。ただ街を何気なく歩いている私などから見ると、砂の中からダイヤモンドを見つけるのと同じくらい至難の業にみえる瓶発見も、尚nao.氏の勘と経験に基づいた物であることが伺えます。  何はともあれ、瓶はすくなくても60年以上の歳月を経た物と推測され、発見された三浦半島西海岸まで辿り着いたいきさつを調べることは不可能であることがわかりました。

もし瓶が麻布から流失したと仮定すると、

宮村町→宮村細流→十番大暗渠→古川→東京湾→相模湾
<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
となり、膨大な距離を旅したこととなります。しかし実際の可能性を考えると、海軍に納品された瓶が横須賀方面で使用され、相模湾まで流れた。とする方が現実性があると思われます。そして、その瓶が過ごした歳月を想像してみると、「瓶の存在自体が過去からのメッセージ」との思いから、なんともロマンチックな思いにかられるのは私だけではないと思います。


※この話には後日談があり、拾得者の尚nao.氏が最初にネットで山水舎の連絡先を確認したのは普段懇意にさせてもらっている「麻布十番未知案内」サイトだったこ事が分かり、な~んだ、知らなかったのは私だけか!とショボクレました(^^; 

最後になりましたが、文字通り砂の中から「麻布」を掘り起こし、画像と本文転載を快くお受け下さったhiroimonoブログ管理者の尚nao.氏の、この瓶を眺めながらニンマリなさっているお姿を想像しつつ、お礼申し上げます。ありがとうございました。

hiroimonoサイト「山水 子供飲料」はこちらからどうぞ。












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