2012年10月18日木曜日

東町の鷹石

近代沿革図集に”鷹石(たかいし)”という項目があります。
その石は鷹の姿が浮き出た自然石で、近代沿革図集の文中には、

「江戸の頃善福寺門前東町西北角に植木屋の四郎左衛門と言う物が居り伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いた所、松下君岳という者がきて石を所望し、元文六(1741)年二月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたのでこのあたりを里俗に鷹石という。(文政町方書上)」

磐井神社

とありました。早速調べてみると、鈴ヶ森八幡という神社はなく大田区の磐井神社であることがわかりました。この神社は貞観元年(859年)創建で江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進された事により江戸の文人、墨人たちにもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石(鈴ヶ森地名の由来)、狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もあります。

また文政町方書上には、
元文(1736~1740年)の頃東町の植木屋四郎左衛門は、伊豆より取寄せたる庭石の中に鷹の形が現はれた石があったので店先に据えて自慢したが、いつしか町の噂となって處の名さへ鷹石と呼はるるに至った。然るに一日松下君岳といふ者がやつて来て、是非にと此の石を所望したので、之を譲った處が、彼は此の石に烏石山人銘を加えて元文六酉(1741)年二月之を東海道の往来繁き鈴ヶ森八幡宮に奉納した。
と石の移転を記しており、。江戸名所図会には移転先の鈴ヶ森八幡の項には、この石を「烏石(うせき・からすいし)として」、
烏石 社地の左方に在る。四五尺ばかりの石にして、面に黒漆を以て書くが如く、天然に烏の形を顕せり。石の左の肩に南廓先生の銘あり、烏石葛辰是を鐫すと記せり。葛辰自ら烏石と号するも此石を愛せしより発するといふ。江戸砂子い云、此石舊麻布の古川町より三田の方へ行所の三辻にありしを、後此地へ遷するなり云々。
鷹石(烏石)
としています。

その他、松下君岳は麻布山善福柳の井戸横の碑文、麻布氷川神社の「麻布総鎮守」と書かれた額を揮毫しています。  江戸期の書籍「兎園小説」の中で「麻布学究」こと大郷信斎は麻布の不思議な石を「麻布の異石」として取り上げていますが、その中で番外としてこの鷹石を紹介しています。そしてそれらの異石のなかで現存が確認されているのは、宮崎県に移設された「寒山拾得の石像」と大田区・磐井神社で現存する、この鷹石だけであるようです。


鷹石を烏石と名を変えて鈴ヶ森八幡へ奉納した松下君岳(1699-1779)とは、書家で本名は葛山辰・曇一、号を烏石といいました。家は下級の幕臣でしたが、君岳はその次男で幼い頃より手跡に精進して、儒学を服部南郭に,書を佐々木文山,細井広沢に師事し唐様書家として名を上げたといわれます。君岳は麻布古川町に住んでいたため、以前からこの地で有名だった「鷹石」を整えて「烏石」と変名し、自らの号としたそうです。そして君岳は赤羽橋に転居のさい、「烏石」も移動し、さらに鈴森八幡に奉納したようです。

第26代江戸南町奉行であった根岸鎮衛が表した「耳袋」巻の三には、「鈴森八幡烏石の事」と題して「鷹石」を紹介していますが文中では、


烏石碑
「~烏石生まれ得て事を好むの人なりしが、鷹石として麻布古川町に久しくありし石をととのえて、己が名を弘めん尊くせん為、鈴ヶ森へ、同志の、事を好む人と示し合わせて立碑なしけるなり。からす石という事を知りて鷹石の事を知らず。右鷹石は山崎与次といえる町人の数奇屋庭にありし石のよしなり~」
と、「烏石」と変名させた松下君岳についてはその売名行為を痛烈に批評しています。これは警察官僚・民生官である根岸鎮衛が、書家としては一流とみなされていたが、放蕩無頼な山師、犯罪者という一面をも持つ松下君岳を知っていたためで、根岸鎮衛が表した著書「耳嚢」によると、その根拠となる事件は、宝暦11年(1761)親鸞の五百回忌が京都の西本願寺でとりおこなわれた際におこったそうです。

京都に居を移し、どうした手づるからか西本願寺門跡の師匠格なっていた松下君岳は、西本願寺関係者が五百回忌を期に親鸞に大師号が授かるように朝廷に働きかけていますが、朝廷、幕府双方から拒絶されて頓挫しているのを知り、不良公家衆とはかって金を出せば事が円滑に運ぶと檀家、関係者を説いて回り、その金を着服したそうです。ことはすぐに発覚して同罪の不良公家衆は蟄居させられました。しかし君岳の罪について記された物が見つからないところを見ると、どうにかして言い遁れたのかも知れません。再び江戸に戻った君岳について、根岸鎮衛はもう一つの逸話として「町屋の者その利を求むる工夫の事」を残しています。江戸に戻った君岳は日本橋二丁目にある本屋「須原屋」に100両を借り受けたようです。しかし君岳には返済の当てなど無い事を見抜いていた須原屋が、君岳の住まいをたづねて書を没収し、100両以上の利益を得たという話で、いかに君岳が信用されていなかったかが、うかがえる逸話が残されています。
解説板
「耳袋」とは、江戸中期に御家人から勘定方となりさらに、勘定組頭、安永5(1776)年には勘定吟味役を経て佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行などの奉行職を歴任した根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が同僚や古老の話を書き留めた全10巻からなる随筆集で、猫が人に化けた話、安倍川餅の由来、塩漬にされた河童の事、墓から死人が生返った話等々、天明から文化年間までの30年にわたって書き続けた珍談・奇談を満載した世間話の集大成です。

この根岸鎮衛はまた、第26代南町奉行就任中に芝神明の境内で起きた「め組の喧嘩」を取り扱いその際に、庶民からは、御家人という低い身分のから町奉行にまで出世し、下情に通じた好人物とみなされて、大いにもてはやされた。この為に真偽はともかく、いつしか体に入墨をいれたお奉行という奇妙な伝承も生まれたと言い、桜吹雪の遠山の金さんのモデルともなったそうです。その後の寛政12年(1815年)7月、鎮衛は 79歳で500石を加増され家禄1000石となり、


御加増をうんといただく500石 八十翁の力見給へ
の句を残し得意の頂点となる。その句が世間に知れ渡ると、


500石いただく力なんのその われは1000石さしあげている
と、悪評のあった肥田豊後守左遷のパロディにも使われた。(豊後守は左遷により1000石を幕府に返上)

そんな鎮衛も同年11月、自宅に祀っていた聖天の燈明により屋敷が焼失して自身も皮肉られ、



御太鼓をどんと打つたる御同役 八十(やそ)の翁のやけを見給へ
善学寺
と詠まれた。さらに11月4日には18年間勤めた町奉行を辞して、12月上旬、冥界へと旅立ったといわれ(一説には11月4日現職のまま逝去、同9日に奉行職転免とも)。その墓は六本木の善学寺にあります。

「耳袋」は永い間その一部しか発見されていませんたが、最近、その100話1000編からなる
完本がアメリカのUCLAバ-クレイ校三井文庫から発見されたそうです。






根岸鎮衛墓所
むかし、むかし1-20 鷹石
http://deepazabu.com/m1/mukasi/mukasi.html#20


















俚俗江戸切繪圖



















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