2012年11月12日月曜日

だまって居よ屋敷

江戸天明期、10代将軍家治が世を治めていた頃の話で麻布に「だまって居よ屋敷」というものがあって評判になったといわれます。

四谷通りの小鳥屋で手広く商いをしていた喜右衛門という者が、通りががりの武家に「うずら」の注文を受けました。その武家は今生憎 持ち合わせが少ないから屋敷で払いたいというので、喜右衛門はうずらを届に麻布にあるという武家の屋敷まで付いて行く事になりました。

屋敷に着いてみるとひどく朽ち果てた屋敷で、中に通され八畳間で煙草を吸いながら待って部屋の様子を見まわしてみると敷居鴨居などは所々曲がり、畳は茶色く変色していてジメジメし、ふすま、唐紙なども穴だらけだったそうです。

屋敷の様子から相当に困窮している武家だなどと思いながら待っていると、やがて日も傾き部屋が薄暗くなってきました。そして、「カサカサ、カサカサ」と音がするのでふと気がつくと、何時の間に入ってきたのか十ばかりの身なりも卑しげな男の子がいました。

この子供が床の間にかけてあった掛軸を巻き上げては、途中でパラリと下に落とし、また巻き上げるということを繰り返していました。最初、喜右衛門もどうせ安物の掛軸だろうと放っておいたのですが、あまりしつこく繰り返すので「ぼうや、そんなことをしてはいけません!」と叱りつけたそうです

ところがその男の子は怯むどころか、「黙って居よ!」と大人のような声を出し、おもむろに顔をこちらに向けた。喜右衛門はその顔を見ると驚愕してしまいました。何と、青白い顔で目も鼻も口もない「のっぺらぼう」であったそうです。
その瞬間に喜右衛門は「わあっ!」と声を出したきり気絶してしまいました。

どのくらい時間が経ったものか、屋敷の者が気絶している喜右衛門を見つけ大騒ぎになり看病してその後駕籠で店まで送り届ける など親切を尽くしたそうだが、屋敷の者が言うには、この屋敷には一年に4~5回のっぺらぼうが現れるといいます。またある時は、この屋敷で殿様の奥方が一人で居ると、いつのまにか十ばかりの子供が部屋に置いてあった菓子を食べていました。奥方が「何者です!」と声をあげると例によって「黙って居よ!」と言いながら振り向き、何もついていないのっぺりした顔を見せ、そのまま姿を消したといいます。 そしてある時は、目が一つだけついている「一つ目小僧」であったといいます。

この屋敷は麻布とあるだけで場所がはっきりしませんが、80歳で死んだ元豊後藩士の太田逍遥翁が語った「実話」であるといいます。