2012年11月28日水曜日

赤羽橋の迷子しるべ石



一石橋迷子しらせ石標
前回の几号水準点を「三角点の探訪」サイトで調べていて、また不思議な記述が目につきました。
それは赤羽橋一石橋の几号を彫り付けたものが「赤羽根橋際迷子知ルヘ石」・「一石橋迷子知ルヘ石」とありました。今回はその「迷子知ルヘ石」のおはなしです。

「迷子知ルヘ石」は「迷子しるべ(標)石」と読み、繁華街(江戸期の赤羽橋は有馬藩邸の水天宮があったので大変な賑わいでした)などで迷子が生じた場合に、はぐれた親子を会わせるための標識で「明治事物起源」によると、その起源は、

江戸時代天保13年(1842年)池田治兵衛という絵師が湯島天神開帳の混雑で迷子が多く出ることを憂いて、たづねる方・おしいる方と書かれた「奇縁求人石」という碑をつくり迷子救済の道標にしようとしたが、事情あって別当所喜見院の境内に埋めた。これを後年惜しんだ人が掘り起こし境内に建てる事になったが、その際一石橋と浅草寺にも池田治兵衛の志をついで「迷子のしるべ」と名を変えて同じ物を建てた。

ことが、始まりと言う。

さて赤羽根橋の「迷子しるべ石」ですが、「三角点の探訪」サイトの表は明治12年(1879年)の内務省地理局雜報をもとに作成されているのですが、明治7年(1874年)刊行の「やまと道しるべ」には湯島天神前、浅草観音仲見世前、一石橋南際の3箇所とともに「赤羽根橋北」とあります。そして、明治17年(1884年)刊行の「改正東京案内」ではこの4ヶ所の他に、芝大明神・両国橋北・神田万世橋際が追加されました。

一石橋迷子しらせ石標と
一石橋の親柱
とあるので、明治17年までの現存は確認できるが、残念ながらその後は不明です。

この項で紹介した画像は残念ながら赤羽橋ではなく一石橋のものですが、たぶんそう違わないであろう「迷子しるべ石」が、赤羽橋にもあったであろうことは今回確認できました。

余談ですが日本橋川にかかる一石橋は、両岸に後藤家があるので五斗と五斗であわせて「一石」という縁起もあるそうです。そして一石橋迷子しるべ石は、「東京都指定有形文化財」に指定されて現存されています。下記にその傍らに記された文をご紹介します。





一石橋迷子しらせ石標


一石橋迷子しらせ石標 解説板
江戸時代も後半に入る頃この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでたた場合、町内が責任を持って保護ることになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よい子の志るべ」、右側には、「志らする方」、右側には、
「たづぬる方」と彫り、上部に窪みあある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。












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