検索キーワード「十番稲荷」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示
検索キーワード「十番稲荷」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示

2017年6月4日日曜日

青物横丁「天妙国寺」に葬られた麻布辺




顕本法華宗別格山寺院
鳳凰山 天妙国寺
先日朝さんぽの途中「今朝のお詣り」で立ち寄らせて頂いた、青物横丁の顕本法華宗別格山寺院「鳳凰山 天妙国寺(1972年までは妙国寺)」さんで出会った三つのお墓。


・お祭り佐七

・桃中軒雲右衛門

・音丸


☆その1-お祭り佐七(元久留米藩士~め組鳶火消し)

本堂にお詣りの後には久しぶりの墓域お詣り。随分久しぶりだったので「お祭り佐七」の墓域が移動していました。

落語「お祭り佐七」の筋立ては元久留米藩士・飯島佐七郎は天神真揚流柔術の免許皆伝で腕が立っての男前から女達が放っておかない。しかしそれがアダで浪人になり、め組の頭清五郎の家にころがりこんだ。 お祭り佐七が鳶になるまでの話。なぜ”お祭り”なのか小さんは、木遣りがうまく方々の祭りに招かれたからだと。

天妙国寺本堂
め組は芝大門、神明宮界隈の受け持ちで増上寺門前の火消しも務めていましたが、佐七の主家であった久留米藩有馬家の上屋敷は赤羽橋にあり、こちらも増上寺「火の御番」を拝命している家柄でした。このことから久留米藩有馬家上屋敷には江戸で一番高い火の見櫓の設置が許され、同じ邸内にあった水天宮と共に数多くの錦絵の題材となっています。

この火の見櫓は現在の東京タワーやスカイツリーのようにランドマークタワーの役割も果たしていたものと思われます。
そして少し横道にそれますが、久留米藩上屋敷にはもう一つの名物がありました。それは将軍綱吉から拝領した犬を登城などの行列の先頭に連れ歩き「有馬の曳き犬」として
有名になります。そして後年、上屋敷西側に両国久留米から分祀した「水天宮」を祀った際に、この曳き犬の故事から犬が安産の多産であることから
明治期に有馬家と共に水天宮が現在の日本橋蛎殻町に移転後も、現在まで「犬帯」の領布が行われています。

佐七の父親とめ組の頭領「清五郎」はこのような増上寺消火の関係からの知り合いで、その清五郎を頼って宅の二階に居候を決め込むという筋立ては、理にかなっていると思われます。
また噺には佐七とめ組の若い衆が品川遊郭に乗り出し、さんざん遊んだ末に佐七が居残りを決めるというくだりも含まれています。

その他佐七については人形浄瑠璃や歌舞伎などにもなっており、「絲桜本町育」「小糸・佐七情話」、「心謎解色糸」、「江戸育於祭佐七」などが演じられています。
そして落語も今回紹介した「お祭り佐七」の他に「雪とん」という噺もありますが両者の間に関連性はありません。



お祭り佐七墓標
俗名 熊木佐七






佐七の主家久留米藩有馬家
火の見櫓取り壊し
(明治初期)

久留米藩有馬家上屋敷「火の見櫓」
を模した麻布中ノ橋欄干



名所江戸百景 増上寺塔赤羽根
歌川広重






※歌川広重の「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」は①増上寺五重塔から見た構図ですが、中央下部に②赤羽橋、そして久留米藩有馬家上屋敷の③火の見櫓と④水天宮(赤い幟の場所)が描かれています。当時の錦絵は大名家名をタイトルにすることは幕府から堅く禁止されていましたので、上記のタイトルになっています。








東都名所芝赤羽橋之図
安藤広重




★BLog DEEP AZABU-有馬家化け猫騒動
http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E8%97%A9












☆その2-桃中軒雲右衛門(芝新網町)


さらに佐七の墓(供養墓でしょうか?)の北側近くに桃中軒雲右衛門の墓所があります。雲右衛門は浪曲中興の祖で「浪聖」とも謳われた明治期の浪曲の大看板で雲右衛門のひ孫・岡本和明著の「俺の喉は一声千両」によると雲右衛門の生まれた場所は江戸市中でも最も貧しい人たちが住まう地域であった芝新網町(現在のJR浜松町付近)であったそうです。

当初の浪曲師はこの芝新網町出身者が多ようで、当初落語、講釈などからも差別され定席での公演が出来ずに、地面にむしろを敷いただけの簡易的な小屋での営業しか出来なかったそうです。

この「桃中軒雲右衛門」という芸名ですが、本来は父から譲られた「吉川繁吉」を名乗って舞台に立っていましたが、人妻であった相方三味線弾きの「お浜」と駆け落ちをしたため「吉川繁吉」を名乗ることを禁じられてしまいます。そして数年後に再び東京へと戻る途中沼津で買った駅弁の包み紙に書いてあった屋号「桃中軒」をとっさに芸名として名乗ることに決めました。
名前の「雲右衛門」は、昔懇意にしていた相撲取り「天津風雲右衛門」をそのまま拝借したようです。

私の知り合いである麻布狸坂下のダイニングバー「あおいひみつきち」店主が4月に投稿した画像に現在は駅弁と駅蕎麦販売となった「桃中軒」の御殿場支店の屋号がそのまま写り込んでいましたので許可を頂き、引用させて頂きました。

★青いひみつきちオフィシャルサイト
 http://www.aoihimitsukichi.com/

★青いひみつきちfacebook
  https://www.facebook.com/aoihimitsukichi/

★桃中軒オフィシャルサイト
 http://www.tochuken.co.jp/


このように芸名を「桃中軒雲右衛門」として東京に戻った雲右衛門はやがて大看板の浪曲師となり、落語・講釈などからの差別も少なくなっていったようです。
そして、その人気にあやかって世に言う「桃中軒雲右衛門事件」という著作権を無視した模倣レコードが大量に販売された事件となります。
その後、桃中軒風右衛門を名乗る実弟を亡くすと、苦労をともにした相方であり妻の「お浜」も肺結核で失います。その際自邸の会ある芝公園から品川天妙国寺まで葬列を組み、多くの見物人が出たといいます。そして天妙国寺での葬儀の後、墓域に埋葬されます。
そして、さらにその後、本妻のお浜と共に自邸に住まわせていた妾のお玉もお浜の看病から結核に罹患し死去。
JR御殿場駅の駅蕎麦「桃中軒」
撮影:ダイニングバー
「青いひみつきち」小堀 裕一氏
その後も隆盛を極めた桃中軒雲右衛門自身も妻から結核がうされていたことにより同じ病を患い、思うように舞台に上がれなくなります。しかし、それまでの浪費癖は直らず、やがて結核の進行により1916(大正5)年11/7、東京府外高田村(現在の豊島区南部)の療養先において四四歳の若さで世を去ります。

その時には雲右衛門は財産のほとんどを失い、残されたものはわずかな現金と毛皮が数枚のみで、葬儀費用も無かったそうです。

桃中軒雲右衛門の孫弟子の一人には、あの....村田英雄がいるそうで、三波春夫も「桃中軒雲右衛門とその妻」を唄っています。


★wikipedia-桃中軒雲右衛門
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

★桃中軒雲右衛門事件
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/56/8/56_552/_html/-char/ja/

★youtube-桃中軒雲右衛門
  https://youtu.be/J2yZCBFLW9o

★俺の喉は一声千両: 天才浪曲師・桃中軒雲右衛門-岡本 和明(桃中軒雲右衛門のひ孫) 著
https://www.amazon.co.jp/%E4%BF%BA%E3%81%AE%E5%96%89%E3%81%AF%E4%B8%80%E5%A3%B0%E5%8D%83%E4%B8%A1-%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%B5%AA%E6%9B%B2%E5%B8%AB%E3%83%BB%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%92%8C%E6%98%8E/dp/4103245328









天妙国寺本堂脇に設置された桃中軒雲右衛門墓所解説板




桃中軒雲右衛門墓所への案内碑
「浪曲聖地」と刻まれています

桃中軒雲右衛門墓碑
桃中軒雲右衛門の妻「お浜」の墓碑

仲良く並ぶ桃中軒雲右衛門と妻「お浜」墓碑



浪曲協会建立の顕彰碑
















☆その3-音丸(麻布箪笥町生まれ、麻布十番下駄屋の内儀でアイドル歌手)


アイドル歌手音丸
こと永井 満津子
(wikipadiaより引用)
本名は永井 満津子。麻布箪笥町の生まれ。音丸の芸名は「音は丸いレコードから」から音丸とされます。ヒット曲は「船頭可愛や」など多数。
大正~昭和期の人妻アイドル歌手で、実家は箪笥町のちに麻布十番(現在の十番郵便局あたり)に移転して下駄屋を営んでいました。
夫はこの下駄屋の入り婿となり商いをし、妻はコロンビアレコードのアイドル歌手として活躍しましたが、まもなく離婚します。

当時、婚姻した女性が舞台で活躍することは少なく、客席から「よっ!下駄屋の姉御!」とかけ声がかかると、「よくご存じ!」っと少しもひるまなかったといわれています。

戦前から戦後にかけて音丸は実家の氏神であった「末広神社」へ度々寄進をしており、戦災から復興して竹長稲荷神社と合祀され現在地に遷座した「十番稲荷神社」
の現在も残る「狛犬」は音丸の寄進によるものです。この狛犬は下部に寄進者の名前として音丸の本名「永井 満津子」が刻まれています。
また終戦直後には再婚した夫で弁士の井口静波と共に人気歌手の座長として全国巡業を行いますが途中四国公演で前座を務めたのは美空ひばりでした。

その後人気は凋落し夫の死から約10年後の1976(昭和51)年、世田谷のマンションで急性心不全により死去し天妙国寺に葬られます。

音丸の墓域内には墓碑と共に「船頭可愛や」の歌碑が建立されています。
天妙国寺にレコードに関係する事件(桃中軒雲右衛門事件)を起こされた桃中軒雲右衛と、レコードの隆盛によりアイドル歌手となった音丸が眠っているのは偶然なのでしょうか?








1.昭和11(1936)年 末広神社本殿の音丸(前列中央)
画像提供:山本仁寿氏

2.昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏


3.昭和34(1959)4月十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏



◆画像解説(一部私の解説ですが、主に山本氏ご自身の解説より)
  1. 昭和11(1936)年末広神社本殿の音丸さん。
    神社造営(狛犬建造費用?)に音丸さん1000円の寄付、小野さん畳表の寄付等が書かれています。末広神社は現在の港区麻布十番2丁目4−1にありましたが昭和20(1945)年の空襲で罹災し、戦後竹長稲荷神社と合祀されて永坂町に遷座、現在の十番稲荷神社となります。最前列中央に音丸さん、隣の高齢女性は音丸さんの実母。末広神社の鈴木宮司、 二列目中央音丸さんの左後ろには山本仁作氏、音丸さん実母左後ろには市川産業社主の市川要吉氏。この市川要吉氏は戦後、社名を市川産業からクラウンガスライターと変更し、昭和51(1976)年にはプロ野球球団の命名権を取得したことにより「クラウンライター・ライオンズ」が誕生し、現在の西武ライオンズへとつながります。また、この市川要吉氏は戦後十番稲荷神社の華表(鳥居)を親交のあった榎本健一(喜劇王エノケン)氏と共に寄進します。この鳥居は残念ながら残されていませんが、この鳥居寄進を記念して現在の十番稲荷神社石華表(鳥居)本殿側には市川要吉氏と榎本健一(喜劇王エノケン)氏の銅板プレートが埋め込まれています。
  2. 昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内。上記音丸さん奉納の狛犬は戦災を免れ今の十番稲荷神社に移築されました落慶の記念写真は昭和27年2月と書かれています。狛犬だけが大きく 後ろの鳥居は木造 神社本殿も小さな木造です神社の後ろがうっそうとした森に見えます。
    狛犬台座が現在のものと違うように思えます。画像にははっきりと「奉納」と「歌謡曲 音丸」と刻まれています。
    中央に音丸さん、右側に鈴木宮司、その隣は山本仁作氏。音丸さんの左には実子のいなかった音丸さんの二人の養女、その後ろには前出の市川産業社主市川要吉氏。
    その他、白水堂、大阪屋、たまりやの各ご主人が写されているようです。
  3. 昭和34年4月 新しい石造の鳥居落慶。
    奉納は日本の喜劇王エノケンこと榎本健一さんとクラウンガスライターの前身市川産業社長市川要吉さん皇太子殿下の御成婚記念として造営されました後ろの本殿も立派に再建され、十番稲荷神社の社号標も建てられました鈴木宮司、石井宮司 お二人で催行されました。最前列中央扁額前の寄進者のお二人。エノケンさんの隣は鈴木宮司、その左隣は山本仁作氏、市川要吉さんの右隣は石井宮司。市川さんの左後ろには音丸さん。エノケンさん、音丸さん、市川さんが一緒に写された非常に珍しい画像です。



★Blog DEEP AZABU-音丸
  http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★wikipedia-天妙国寺
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A6%99%E5%9B%BD%E5%AF%BA

★wikipedia-音丸
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★youtube-音丸
 https://youtu.be/RIQP0Vgo4ys

★wikipedia-榎本健一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E5%81%A5%E4%B8%80

★wikipedia-クラウンガスライター
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC



十番稲荷神社鳥居銅板
「榎本健一」
十番稲荷神社鳥居銅板
「市川要吉」


























ご紹介した1~3の画像は、麻布十番未知案内サイト管理者で、赤い靴の「きみちゃん像」管理者でもある山本仁寿(きみとし)氏の提供。元十番パティ前の洋品店ローリエヤマモト(現在はパレットプラザ麻布十番店となっている場所にありました)店主。お父上は元・麻布区議会議員の山本仁作氏。
今回山本氏からご提供頂いた画像は昨年終了した「私と町の物語」展に出品して
頂いたほかは 書籍等にはまったく未発表の貴重な画像です。

★山本氏のサイト「麻布十番未知案内」
赤い靴の女の子・岩崎きみちゃんについての逸話が満載です。

      http://jin3.jp/










④-1十番稲荷神社狛犬(右)

④-2十番稲荷神社狛犬(左)

④-3十番稲荷神社狛犬台座の寄進者名「永井 満津子(音丸)」


天妙国寺音丸墓所
墓域内には「船頭可愛いや」歌碑があります







その他にも天妙国寺には「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」、桃中軒雲右衛門、伊藤一刀斎などの墓があり、当時から名刹であった寺の勢いが偲ばれます。


※画像は一部wikipediaより引用

















2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。

麻布十番の七面坂と
本善寺があったあたり

吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。

七面坂 坂下

七面坂 坂標

とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺




2016年4月4日月曜日

東洋英和ラ-ジ殺人事件


 


      
事件当時の東洋英和女学校
校舎(創立地)
麻布区東鳥居坂町14番地
(提供:東洋英和女学院)

事件当時の東洋英和女学校校舎(創立地)











      
創立地校舎敷地図面
(鳥居坂町14番地)
(提供:東洋英和女学院)

創立地校舎敷地図面(鳥居坂町14番地)















      
現在の東洋英和女学院創立地
(港区六本木5丁目12-11)

現在の創立地











      
T.Aラージ氏墓碑(青山墓地外人墓地)

T.Aラージ氏墓碑(青山墓地)























































   
殺害されたThomas A. Large
(提供:東洋英和女学院)

殺害されたThomas A. Large









   
Eliza Spencer. Large
東洋英和女学校・第二代校長
(提供:東洋英和女学院)

Eliza Spencer. Large東洋英和女学第二代校長












      
東洋英和の敷地変遷とその周辺

東洋英和の敷地変遷とその周辺















1890(明治23)年4月4日夜11時ころ、麻布区東鳥居坂町13番地(港区六本木5丁目12-11)の東洋英和女学校に賊が侵入し、日本刀のような物で、校長でカナダ籍のスペンサ-・ラ-ジ(当時30歳)が切りつけられ重症を負い、夫であるT.A・ラ-ジが斬殺されました。 
賊は学校台所脇の物置から侵入し、小使の瀬川喜兵衛を脅して金のありかを詰問しましたが、瀬川は知らなかったので縛り上げて、2階の校長居室に侵入します。物音に気付いて「だれだ!」と声をかけたT.Aラージ氏に「用事がある」と近寄った賊は、氏を14ヶ所も切りつけて即死させてしまいます。 
その際に夫を助けようとした妻のスペンサ-も顔を切られ、指を切り落とされるなど重傷を負いますが、騒動に気づいた寄宿生が騒ぎ出し賊は何も取らずに逃走しました。

賊は逃げ出す時に、洋銀製の煙管(キセル)が入った印伝(インデン)の煙草入れを落として行ったので、警察の調査で賊は「知識階級」の者であると推測されました。また瀬川は賊が股引足袋装束であったと陳述し重症を負ったスペンサ-の口からも賊は身にしっくりした衣装で白い帯をし、うわっぱりも巡査が用いる物に違いなく、賊は警察官であったと固執し、この原因はキリスト教の迫害が目的であろうと陳述したので、時の政府はたいそう狼狽しました。

麻布鳥居坂警察署誌によると、


「~本署は之より犯人は強盗と見込みを付けたが当時の下谷警察署に於ても大捜査を開始した。此犯行は非常に巧妙で何等の痕跡なく犯人は検挙せられず迷宮事件の一つになって終わった。当時未だ治外法権も撤廃されず外国人は内地人より優越的な待遇を受けていた時代なので、外国人等より批判多く相当興論を沸騰せしめた事件であつた。」 
とあり、世間でも大騒ぎした様子がうかがえます。


事件後、警察も犯人の手がかりはまったくつかめずにいましたが、犯行から11日目の山梨日々新聞に突如「練絲痕」という小説の連載が開始されます。内容は日本人青年大森安雄と金髪令嬢レニスとのよくある恋愛小説だったが、2回目の連載「無惨」の内容はレニス嬢の父親が殺害される場面がラ-ジ殺人事件と酷似しており3回目の「疑惑」ではその犯人の追及を行うというリアルな内容であったため、警察も事件の内部事情に詳しい者が執筆している可能性があると調査を開始しました。

著者は靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三という学生で、早速取り調べたが事件の新聞記事を基に小説を執筆していた事が分り、犯人ではないことがわかりました。しかし、この小説の連載は警察の取り調べ後、9回をもって打ち切りとなります。
犯人の割り出しに躍起になった警察は、田中光顕警視総監の下で鬼と呼ばれた武藤警部を導入し嫌疑者を多数取り調べますが、十分な証拠も無く、すべての嫌疑者が釈放されてしまいます。

当初、小使の瀬川喜兵衛も事件当時の行動に不信をいだかれ、厳しい取り調べを受けます。また事件当時の学校は前年の校舎新築工事の代金未払いで下請業者と係争中でもありその線も調べられました。しかし結果はすべて”白”で捜査は振り出しに戻り、困り果てた警察も田中警視総監の名で300円の懸賞金をかけますが、結局有力な情報はもたらされず、事件は迷宮入りしてしまいます。


事件が解決されたのは事件現場であり東洋英和女学校が創立地でもある鳥居坂町14番地から現在の地に移転した2年後の、1902(明治35)年12月で、その間武藤警部と配下の兼子刑事は何と12年に渡って執拗に事件を追い続けていました。

犯人は明治25年強盗犯として新宿署に逮捕され服役していた馬場恒八、士族の小笠原重季の両名で、その事件の手口がラ-ジ殺人事件の犯痕と共通するものが多くある事を付きとめ、小笠原重季を幾度となく取り調べた結果、遂に自供に至り事件は12年ぶりに全面解決します。 
しかしこの時、馬場恒八は網走監獄ですでに獄死しており、また小笠原も明治25年の強盗事件で13年の刑期に処せられ東京集治監に服役中でしたがラ-ジ殺人事件は時効が成立していたため不問とされ、明治31年の英照皇太后の恩赦で9年9ヶ月に刑期を短縮されていたため、小笠原重季はラ-ジ殺人事件が解決した直後の1902(明治35)年12月17日に満期出獄します。


(余談その1)


「幕末明治女百話」という本のなかで、事件当夜に寄宿生徒であった女性の回顧談が「78.英和女学校のラ-ジ殺し」として掲載されていて、事件の際に壁一枚隔てただけの寄宿舎で見聞した事件の真相を克明に描写しています。


(余談その2)


山梨日々新聞に「練絲痕」を執筆した靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三(1873~1957年)という人騒がせな学生は、その後有力者の紹介で三井銀行に採用されたが、小説家への夢が捨てきれず1月からの出社を4月まで延ばし、その間には伊豆で女性と恋に落ちた。しかし温泉で別の女性の入浴を覗き見したことが発覚しその女性に振られて、一人寂しく帰京した。その後、銀行からの矢のような出社の催促と友人からの意見により小説家をあきらめ、4月4日からやむなく出勤を始めます。 
時は流れて明治40年。彼は箕面電車を設立し、宝塚少女歌劇団、タ-ミナル・デパ-トを創始。そして昭和8年(1933年)東京に進出して東宝映画を設立。その後政界入りして商工大臣、国務相などを歴任した。しかし戦後政界を追放され東宝社長、宝塚音楽学校長をつとめました。


















同 年 代 の 関 連 年 表
 西 暦 年 号
  事  象
1875年明治 8年1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸
5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸
1881年明治14年明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧
1882年明治15年川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。
1883年明治16年築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。
1884年明治17年カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。
1885年明治18年Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。
1886年明治19年一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
1887年明治20年Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
1888年明治21年麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立
1889年明治22年2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。
1890年明治23年4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。
1891年明治24年2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。
1892年明治25年5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
1893年明治26年山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。
1894年明治27年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1895年明治28年5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
Mrs.ラージがカナダに帰国。
1897年明治30年Mrs.ラージが三度目の来日。
1899年明治32年4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
1900年明治33年洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
1901年明治34年Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる
1902年明治35年1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決
1903年明治36年3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
1904年明治37年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。
1908年明治41年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
1911年明治44年岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
1913年大正 2年安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
1914年大正 3年ヴォーリズ(William Merrell Vories設計による明治学院チャペルが建設される。
1918年大正 7年元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
1921年大正10年松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
1923年大正12年ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
1933年昭和 8年Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。


麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。








   
カナダ婦人宣教師物語
「ミセス・ラージ:娘ケイトと」
(提供:東洋英和女学院)

ミセス・ラージ:娘ケイトと







★20140404追記




先日東洋英和女学校史料室を訪問した際に購入した書籍
「カナダ婦人宣教師物語」
にはMrs.ラージの写真が数点掲載されている。その中でも「ミセス・ラージ:娘ケイトと」と題された写真に目がとまりました。
実はその写真は、以前にもこの事件を調べる際に「目で見る東洋英和女学院の110年」という周年誌で目にしていたのですが、改めて見たときに何か違和感を感じて目にとまってしまいました。
その訳はよく見ると不自然に右手を後ろに回し、左手で幼い娘さんを支えているように見えます。この写真に対して東洋英和史料室から悲しい逸話をお話し頂きました。その逸話とは、

この写真は殺人事件のあった頃に写された写真で、事件により指を2本失っていたMrs.ラージは、右手を娘との大切な写真に写したくなかったので、意図的に後ろに隠している。

というもので、指を失った姿で写るのを拒否しているMrs.ラージの写真であるそうです。

  •  1890(明治23)年 東洋英和女学校で強盗殺人事件発生。

  • 1903(明治36)年 十歳の安中はな(後の村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学。

  • 1908(明治41)年永坂孤女院が鳥居坂教会日曜学校と併設で設立され童謡「赤い靴」のモデルとなる「岩崎きみ」ちゃんがこの孤児院で養育される。





★関連項目



永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん

「花子とアン」の麻布


























2015年9月26日土曜日

十番馬場

十番馬場の前身
芝新馬場
江戸時代、竹長稲荷裏手(現在の新一の橋交差点あたり)に「馬場」がありました。
この馬場は「十番馬場」とよばれ周辺の町人地は「十番馬場町」と命名されていました。
この馬場については、


◇十番馬場-麻布区史
~享保十四(1729)年九月には麻布十番馬場が開設された。この馬場は承応三(1654)年馬口労共より馬場地拝借方を願い出て芝新馬場に於いて長百五拾八間、横幅三拾間余並居屋敷共に拝領して、銘々に住居していたが、享保十四(1729)年八月十一日、その地御守殿用地に召し上げられ、代地を当地に賜ったのである。この地は延宝三(1675)年の金杉新堀開墾以来麻布十番と呼んだので、十番馬場と称した。~

~今の新網町一丁目の辺にあたる。この馬場は江戸初期から明治に近い頃まであった。承応三(1654)年、芝新馬場からこの所へ移してより世に響くに至った。
十番馬場
(※承応三(1654)年は馬場が芝に成立した年でこの記述は誤りと思われます。)

この所は、仙台駒の市場で十一月より十二月にかけて三回馬市がたてられた。~

◇十番馬場-御府内備考
十番は新堀の傍なり。この所に馬場あり。世に十番の馬場といふ。江戸志云、この地は元西応寺町のわきなり、むかしは馬市の立ちし所を浅草芝両所とさだむ。浅草は藪の内といふ所なり。南部駒の市場なり。芝はその所に御守殿たちしかば、かはりとしてこの地をたまへり。
是を仙台駒の市場といふ。十一月より十二月のうち三度の市あり、初見世、二日め三日めと唱ふとそ。
御馬工郎(馬喰)の家とて福田、河合、吉成、矢部などいふ七人ありとなり。又一説にこの地は長岡郡小沼興次兵、後藤半平、金子七十郎、川井次郎兵衛、川口彌太郎といふものうけ給り、永坂の名主次郎次郎左衛門支配せり。里人七人衆と唱ふ。そのむかしは十三人ありしと。かれら
現在の十番馬場跡
が先組は信濃の者にて、天正十八(1590)年関東御討入のころ江戸に来たりその頃より府中六所明神(大國魂神社)の、馬場にて諸国の馬仙台より来りて、毎年これをのり公に奉り、その後芝にて地をかし給いひ、馬場をも下されしが、後年竹姫君(綱吉・吉宗養女:浄岸院)松平(島津)薩摩守継豊の許へ御入輿あり。
御守殿も建史しかばかの屋敷のそへ地として下されしにより、馬場も今の地(十番馬場)にうつさるといふ。
毎年仙台馬をここにてえらべり。
この拝借地の中に享保十四(1729)年三月官許を得て町屋を開いたのが十番馬場町であって、その所には長岡久治郎、小沼正助、後藤甚四郎、金子篤太郎、河合栄三郎、河合次郎兵衛、川口喜重郎の七人の浪人が馬口労(馬喰)として九十一坪の至百六十三坪の宅地を拝借地として所持していた。この者共は元地(芝)新馬場に居た時は十五人であったが、追々武家方に召出され、十番に移った時は七人に減じたのである。

そしてこの十番馬場で乗馬用の「十番袴」が考案されることになります。
この十番袴とは、


★じゅうばん‐じたて〔ジフバン‐〕【十番仕立て】
乗馬に向くように、襠(まち)を高く、裾(すそ)を広く作った袴。
今日の男袴の源流。十番馬乗袴。十番。
[補説]江戸の麻布(あざぶ)十番に住んでいた
馬乗りが考案したからという。

出典:デジタル大辞泉

★十番馬乗り袴
【読み:じゅうばんうまのりばかま】

ふつう、「十番仕立て」という袴の仕立て方、また、それで仕立てた袴のことをいいます。
その語源は、江戸麻布十番に住んでいた馬乗りが用いたことから始まります。裃といわれる
肩衣袴は、袴の襠が下のほうにあって馬乗りには不便なところから、これを改良して襠高袴
につくって用い、しだいに普及していったといわれています。江戸時代中期末からの流行で、
これが今日の男袴の源流でもあります。

などとあり、今日の男性用袴の原型となっていることがわかります。

また、十番に移転する前の芝新馬場の場所は時代が下って明治になると、再び馬に関係する場所がすぐ近所に建設される事となります。
この芝新馬場の地で江戸期には薩摩藩邸であった場所に1879(明治12)年には、元薩摩藩邸敷地内に正式な競馬場である「三田育種場興農競馬場」が設置されることになり、この競馬場が皇室・貴族・外国人などしか入場が認められていなかったため、鹿鳴館外交の一端を担う場所となります。






 


三田育種場興農競馬場










★関連事項

三田育種場興農競馬場









2015年8月10日月曜日

がま池「上の字」札の効能書き

先日インターネットで古書を販売するサイトで「麻布」で検索すると、意外なものが引っかかりました。それは上の字効能書き「湯火傷呪(まじないは旧字)」と書かれており、五千円という価格から一瞬躊躇をしましたが....やっぱり購入しました。

数日で商品は到着し中身を確認すると、経年劣化のためか茶色く変色し、一部に虫食い穴が開いている18cm×13cmほどの小さな紙片が入っていました。
文面を確認すると最後の方に麻布一本松山崎藩中  清水(清は旧字)
とあり、がま池「上の字札」の効能書きに間違いありませんでした。

しかし、文面を読み下す読解力が私にはなく、紹介により郷土資料館にお願いしようとしましたが、担当者の方がお忙しくて連絡がつかず、諦めました。

後日、この資料を現在上の字札を領布している十番稲荷神社にコピーを奉納しようと訪れると、社家の方から意外なお話をお聞きしました。その内容は、

当社にも上の字札と効能書きのコピーが数種類あり、今回私が持ち込んだものはそのいづれとも合致しない、新しい種類のもの。との事でありがたいことに十種類もの効能書きなどをおわけ頂きました。
残念ながらそれらの上の字札は十番稲荷神社にもコピーのみで現物がないため、所有者の許諾を得ることが難しいのでここでの掲載は遠慮することとします。

この十種類プラス私が所有するものをあわせると上の字札の効能書きは十一種類となりました。
そして十番稲荷神社から分けて頂いた効能書きにはありがたいことにすべてに読み下しが添付されており、それらを参考に私の所有する効能書きも、なんとか読み下すことに成功しました。
湯火傷呪(やけどのまじなひ)




上記読み下し


この十一種類の効能書きに書かれていることを比較すると下記のようになります。






この表を要約すると、
  • タイトルに「湯火傷呪(呪は旧字)」と書かれたものが9種類、「湯火傷守」と書かれたものが2種類。
  • タイトルに「ふりがな」があるものは9種類、無いものが2種類。
  • 効能書きの項目が「二つ」のものが2種類、「三つ」のものが1種類、「七つ」のものが8種類。
  • 発行場所が「麻布一本松山崎藩中」が6種類、山崎邸内が1種類、「東京麻布一本松通り西町」が1種類、「東京麻布区山元町三十五番地」が1種類、「東京府麻布区」..以下判読不明が1種類、「成羽藩」が1種類、「麻布一本松」が1種類。
  • 発行元が清水(清は旧字)が8種類、「邸内」が1種類、「林氏」が1種類、「翠露堂」が1種類。
  • 領布開始月日が「文政四(1821)年九月より出」が8種類、「明治二巳(1869)年」が1種類、期日の記載がないものが2種類。
となっていました。これらから解ることは......、

  • 成羽藩・山崎藩の成立は明治維新の官軍に味方した功績による「高上げ」で元の旗本(交代寄合)五千石から一万二千石あまりの大名となり立藩したことから、これらの効能書きは明治時代のものとなることがわかります。(1、2、3、4、6、9、11)
  • 領布開始月日が「明治二巳年」となっている6も明治時代のものであることがわかります。
  • タイトルが「湯火傷守」となっている7、8も東京府麻布区となっているので、麻布区の誕生は1878(明治11)年であることからこれらも明治期のものであることが解ります。
  • そして効能書きの項目については、霊験あらたかな上の字札の効能が時代を経ることで減少するとは考えにくく、当初よりも効能が増えていったと考えるのが妥当かと思われます。つまり(5、6)→(2)→(その他)と考えられます。
山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形
これらからこの11種類のがま池上の字札の効能書きのうち、少なくても10種類については明治期に領布されたものであると想像されます。また残る1種類(5)についても明治以前であるという確証は無く、明治以降である証拠が記されていないだけです。
また、領布開始日についてもこの日に札が領布されたことを示すものではなく、初めて領布された期日を記しているものと思われます。

そして発行者について「清水家」は山崎家が旗本であった時代からの江戸藩邸の重臣であり、
「備中成羽藩史料」という書籍の中にも「山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形」という文章の中にこの清水家と思われる名が記されています。

また発行元としてもう一つ個人名「林氏」がありますが、こちらも山崎家の高官であった可能性が高く、この林氏について専門に研究されている方がいることを十番稲荷神社社家からお伺いしました。さらに「翠露堂」については全くの不明でその解明が待たれます。

これら11種類の効能書きを見てきて非常に大きな疑問が残された。
がま池に大ガマが現れそれから上の字札の領布が始まったことが伝えられていますが、
その大ガマ出現したのは、





となっており、いずれも江戸末期のことでした。しかし、11種類の効能書きには江戸期のものがほぼ一つもありません。このことから.......がま池の上の字札の領布が始まったのは明治期になってからではないかという疑問です。

しかし、一方では江戸末の文化・文政期には邸内社信仰が大流行し、

文化十四年1817年 讃岐丸亀藩-虎ノ門金比羅宮の爆発的な隆盛
文政   元年1818年 久留米藩有馬家-赤羽橋 水天宮の大流行
文政   四年1821年  交代寄合(旗本) 山崎家 がま池に大ガマが出現?~上の字札領布のはじまり


というきわめて自然な流れで大身旗本の副職(アルバイト?)の成立が想像されます。

このがま池上の字信仰の隆盛は明治期であると思われ、「幕末明治女百話」では、


山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の 、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、 八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を 貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い 事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁ひと ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費が つづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって 火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が
癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。
ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、 ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだとよく話してでした。
麻布区山元町三五番地

として上の字札の売り上げが莫大であったことを伝えます。
この清水家について廃藩置県で成羽藩が解体されて以降、麻布区山元町三五番地で上の字札の領布を行っていたそうですが、上の字札を書くにあたって、がま池の水ではなく井戸水が使用されていたことがわかります。この山元町の清水家跡は現在元麻布ヒルズ敷地となっています。ちなみに現在十番稲荷神社が領布している「上の字御守」はマンション管理会社の許諾により年に一度がま池の水をくんで書かれているとのことです。


また廃藩置県以降上の字札の領布を山崎家から委譲された清水家は、1927(昭和2)年に郷里の栃木県足利市に引きあげる際に、十番稲荷神社の前身である末広稲荷神社に上の字札の販売を委譲します。

これにより末広神社が上の字札の領布を始めることとなりますが、多くの書籍等には末広稲荷神社の上の字札授与が昭和2(1927)年からはじめられたと記されています。しかし十番稲荷神社で特別にお見せ頂いた社記(神社の業務日報?)複写には、

「昭和4(1929)十一月四日ヨリ社頭ニ看板ヲ掲ゲ参拝者ニ授与ス」

と、明確に記されています。







上の字札領布の変遷
江戸期~明治4(1871)年備中成羽領主・交代寄合(旗本)山崎家が自邸がま池池畔で領布
明治期~昭和2(1927)年清水家(成羽藩山崎家家令)が山元町三十五番地(現在の元麻布ヒルズ辺)で領布
昭和4(1929)年~昭和20(1945)年末広稲荷神社が領布
平成20(2008)年~現在十番稲荷神社ががま池の水を使用して領布。(十番稲荷神社は建物強制疎開により取り壊された末広稲荷と竹長稲荷が合祀)





現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」








現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」と効能書き


このようにがま池の大ガマ伝説を元にした「上の字御守」は変遷を重ねながらも現在も領布が続けられています。


◆関連項目

DEEP AZABU 麻布七不思議-がま池

十番稲荷神社公式サイト








★20150811追記-井上円了が否定した「上の字」信仰


このがま池の大ガマ伝説を元とする「上の字」信仰について明治期にその効能を完全否定する人物が現れます。
その人物の名は井上円了といい、東洋大学の創立者であり超自然現象を哲学的な立場から解明しその怪異性を否定する「お化け博士」、「妖怪博士」と呼ばれた人物です。
そして、この井上円了は「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明した人物としても有名で、2011年10/12歴史秘話ヒストリア「颯爽登場!明治ゴーストバスター~“妖怪博士”井上円了~」というタイトルで放送されました。


また、井上円了は妖怪研究に関する書を数多く著しており、青空文庫にも数多く収録されています。その著書の一つ「迷信解」の中ではこのがま池上の字札に触れており、

(引用はじめ)~ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。~(引用終わり)
と記して上の字札の代わりに名刺を使って患部をさすっても同様の効果があったとして上の字札の迷信性を強調しています。
この円了の対局にいたといわれているのが民俗学者の柳田國男です。柳田は民俗学的見地から「非科学的な迷信も共存すべき」と唱えることになります。


○井上円了
哲学的見地から「妖怪」を解明することにより其の存在を否定。妖怪排除のための妖怪研究。→迷信の排除。



○柳田國男
民俗学的立場から「妖怪」を肯定。民間伝承の重要性から妖怪も自然の一部としてとらえていた。→迷信との共存。


という構図になり、両者は思想的には対立関係にありました。