2015年9月6日日曜日

麻布大番町奇談

度々お伝えしてきた「兎園小説」は滝沢(曲亭)馬琴の呼びかけにより、当時の文人が毎月一回集って、見聞きした珍談・奇談・都市伝説などを披露し合った「兎園会」で語られた話をあつめた随筆集で、1825年成立の本集一二巻のほかに外集・別集・拾遺・余録計九巻があります。
今回はこの兎園小説拾遺から「麻布大番町奇談」をお届けします。



大岡雲峯屋敷

文政十一年の三月中ごろ、大岡雲峯(画家・旗本)の屋敷に永く勤める老女がいました。その老女は名を「やち」といい、年齢は七十歳あまりですが誰も名を呼ぶ者はなく、ただ「婆々」と呼んでいました。婆々は親族も皆絶えて、引き取り養う者もなかったので、主人も哀れみずっと家にいることを許しました。

そして三月中ごろに、婆々は何の病気もないのに気絶し、呼吸も止まってしまいます。

そして...一時(2時間)ほどで息を吹き返しますが、その後体が不自由となります。しかし、食欲だけは増大し以前の十倍も食べるようになります。三度の食事以外にも食べていない時が無いほどで、死に近い年齢の婆々がここまで健啖(食欲旺盛、大食い)なのを怪しいと思わないものはいませんでした。

婆々は手足こそ不自由ですが、毎夜面白げな歌を唄い、そして友達が来たといっては大声で独り言などをいいました。あるいはまた、はやしたて、拍子をとる音なども聞こえる事もありました。あるいは、深酒で酔った後のように熟睡し、日が登るまで起きないこともありました。

このような状況に家の主人(大岡雲峯)も不審がり松本良輔という医者に診てもらうと、すでに脈がなかったそうです。少しあるのですが、脈ではないとの診察で、医者も「奇妙な病です。」と不思議がり、薬もも出しようがなく、老衰からの所行で脈が通じておらず、

「養生する以外に方法がなく時々様子を見に往診に来ます。」

と言うしかありませんでした。

そして月日が流れると、婆々の姿は肉がそげ落ちて、後には骨が露出して穴が開き、その穴の中から毛の生えたモノが見えるということで、介護の者が驚いて騒ぎだす事になりました。

文政十二(1829)年の春を迎える頃には、まだ婆々に息があるので湯あみをさせ、敷物を毎日交換するなど看病させると、婆々は喜んで感謝を繰りかえしました。
また、滋養の高い食事の世話をするため、主人は少女の介護人を婆々につけてやりました。
やがて再び冬になり婆々の着物を脱がせてみると、着物に狸のような毛が多数付いていることに気がつき、その臭気は鼻を覆わなければいられないほどで、人々はさらに怪しみます。


その後、狸が婆々の枕元を徘徊し、婆々の布団から尻尾を出すこともありました。このようなことが続いたので介護の少女はいたく恐れていましたが、主人の説得により次第に慣れて怖がらなくなってゆきました。そして毎夜婆々が唄う歌を聞き覚え、

「今夜は何を唄うのかしら?」

っと、笑顔で婆々の唄を待つようになります。

そして後には、婆々の寝ている部屋には多くの狸が集まり、鼓・笛太鼓・三味線などで囃子たてる音が聞こえ、婆々が声高に唄う声も聞こえてきました。また囃子に合わせて踊る足音が聞こえることもありました。

そしてある朝、婆々の枕元に柿が多く積み上げられていることもあり、その訳を婆々に尋ねると、

「これは昨夜の客が、私を大事にしてくれるお礼にこの家に持ってきたものなので、どうぞ召し上がって下さい。」

といわれます。しかし皆は怪しんで、誰も食べようとしませんでしたが、中を割ってみると普通の柿のようだったので、介護の少女にすべて与えました。

またある日には、切り餅がたくさん婆々の枕元に置いてあることもあり、これも狸からの贈り物に違いなく、獣(けもの)でも主人の情にに感謝しているに違いないと人々は噂しました。

ある夕べには火の玉が「手まり」のように婆々の枕元を跳びまわり、介護の少女が恐れながら見たところ、赤い光を発するまりで、手に取ることは出来ずにたちまち消え失せたということでした。翌朝婆々にそれを問うてみると、

「昨夜は女の客があり、まりをついた」

といいました。

別の夜には火の玉がはねるように上下していたので、婆々に問うと、羽根突きをしたとのことでした。またある日、歌を詠んだからと、紙筆を所望して書きつけました。

朝顔の 朝は色よく 咲きぬれど
          夕べは尽くる ものとこそしれ

婆々は読み書きが出来ませんし、唄など詠むような人ではないので、これも狸の仕業にちがいないと噂しました。さらに別の日、絵を描いてかいごの少女に与えたのを見てみると、蝙蝠に旭日を描いて、賛が添えられていました。

日にも身を
      ひそめつつしむ 蝙蝠(かわほり)の
                          よをつつがなく とびかよふなり

これもまた、いままで婆々は絵を描くことはなかったので、古狸の仕業に違いないと人々は言い合いました。

このように怪異を起こす婆々はさらにますますの大食いをして、毎食、飯を八九碗、その間には芳野団子五六本、その後まもなく金つば焼餅二三十個など、本当に日々大食いでしたが、それにより病気になる気配はまるでありませんでした。


ある晩、婆々の寝間で光明が照り輝き、紫の雲が起こります。三尊の阿弥陀仏が現れて、婆々の手を引きながら行くと見え、介護の小女は驚き怖れ、慌てて主人のところへかけます。

しかし、主人の雲峯と妻が駆けつけて見れば、婆々は熟睡しており、ほかに何者の姿もありませんでした。そして、文政十二年十一月二日の朝、雲峯の妻は夫に告げます。

「昨夜、年老いた狸が婆々の寝間から出て、座敷をあちこち歩き回り、戸の隙間から外へ出て行きました」




そこで婆々のところへ行ってみると、すでに婆々は息が絶えていました。これは、頓死した婆々の遺骸に、老狸がずっと憑いていたのでしょう。これは雲峯自身が話したのを、そのまま書き記したものです。




....ここでこの話は終わりますが、このあとに後記のような文が続いているので、こちらは原文のまま、お伝え致します。

    原文この下に、彼小女(介護の少女)の夢に古狸の見えて、金牌を与へし抔(杯)いふことあれど、そはうけられぬ事なれば、ここには省きたり。ここにしるすごとくにはあらねど、此狸の怪ありし事は、そら事ならずとある人いひけり。原文のくだくだしきを謄写の折、筆に任して文を易たる所あり。さればその事は一つももらさで、元のままにものせしなり。奇を好む者に為には、是も話柄の一つなるべし。



庚寅秋九月燈下借謄了。

※[庚寅とは文政13(1830)年の事]




◆追記


大番組屋敷が集っていた表大番町・裏大番町をあわせた「四谷大番町」が制定されます。

さらに、明治11(1878)年には千駄ヶ谷大番町を四谷区に編入し、同24年(1891年)四谷大番町に吸収され、そして昭和18(1943)年、四谷大番町と四谷右京町を併せ、一文字づつとって「大京町」が成立することになります。

この「兎園小説」を編集した滝沢馬琴は広義においてこの大番町を麻布と捉えていたのかもしれませんが、一方では兎園会で発表の際に、その発言者が地名を間違えていたのかもしれません。いづれにせよ、この兎園小説が書かれた文政期に、この地域が麻布であったという確証はとれませんでした。

















★関連項目


五嶋家門前の要石




寒山拾得の石像




東町の鷹石









2015年8月10日月曜日

がま池「上の字」札の効能書き

先日インターネットで古書を販売するサイトで「麻布」で検索すると、意外なものが引っかかりました。それは上の字効能書き「湯火傷呪(まじないは旧字)」と書かれており、五千円という価格から一瞬躊躇をしましたが....やっぱり購入しました。

数日で商品は到着し中身を確認すると、経年劣化のためか茶色く変色し、一部に虫食い穴が開いている18cm×13cmほどの小さな紙片が入っていました。
文面を確認すると最後の方に麻布一本松山崎藩中  清水(清は旧字)
とあり、がま池「上の字札」の効能書きに間違いありませんでした。

しかし、文面を読み下す読解力が私にはなく、紹介により郷土資料館にお願いしようとしましたが、担当者の方がお忙しくて連絡がつかず、諦めました。

後日、この資料を現在上の字札を領布している十番稲荷神社にコピーを奉納しようと訪れると、社家の方から意外なお話をお聞きしました。その内容は、

当社にも上の字札と効能書きのコピーが数種類あり、今回私が持ち込んだものはそのいづれとも合致しない、新しい種類のもの。との事でありがたいことに十種類もの効能書きなどをおわけ頂きました。
残念ながらそれらの上の字札は十番稲荷神社にもコピーのみで現物がないため、所有者の許諾を得ることが難しいのでここでの掲載は遠慮することとします。

この十種類プラス私が所有するものをあわせると上の字札の効能書きは十一種類となりました。
そして十番稲荷神社から分けて頂いた効能書きにはありがたいことにすべてに読み下しが添付されており、それらを参考に私の所有する効能書きも、なんとか読み下すことに成功しました。
湯火傷呪(やけどのまじなひ)




上記読み下し


この十一種類の効能書きに書かれていることを比較すると下記のようになります。






この表を要約すると、
  • タイトルに「湯火傷呪(呪は旧字)」と書かれたものが9種類、「湯火傷守」と書かれたものが2種類。
  • タイトルに「ふりがな」があるものは9種類、無いものが2種類。
  • 効能書きの項目が「二つ」のものが2種類、「三つ」のものが1種類、「七つ」のものが8種類。
  • 発行場所が「麻布一本松山崎藩中」が6種類、山崎邸内が1種類、「東京麻布一本松通り西町」が1種類、「東京麻布区山元町三十五番地」が1種類、「東京府麻布区」..以下判読不明が1種類、「成羽藩」が1種類、「麻布一本松」が1種類。
  • 発行元が清水(清は旧字)が8種類、「邸内」が1種類、「林氏」が1種類、「翠露堂」が1種類。
  • 領布開始月日が「文政四(1821)年九月より出」が8種類、「明治二巳(1869)年」が1種類、期日の記載がないものが2種類。
となっていました。これらから解ることは......、

  • 成羽藩・山崎藩の成立は明治維新の官軍に味方した功績による「高上げ」で元の旗本(交代寄合)五千石から一万二千石あまりの大名となり立藩したことから、これらの効能書きは明治時代のものとなることがわかります。(1、2、3、4、6、9、11)
  • 領布開始月日が「明治二巳年」となっている6も明治時代のものであることがわかります。
  • タイトルが「湯火傷守」となっている7、8も東京府麻布区となっているので、麻布区の誕生は1878(明治11)年であることからこれらも明治期のものであることが解ります。
  • そして効能書きの項目については、霊験あらたかな上の字札の効能が時代を経ることで減少するとは考えにくく、当初よりも効能が増えていったと考えるのが妥当かと思われます。つまり(5、6)→(2)→(その他)と考えられます。
山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形
これらからこの11種類のがま池上の字札の効能書きのうち、少なくても10種類については明治期に領布されたものであると想像されます。また残る1種類(5)についても明治以前であるという確証は無く、明治以降である証拠が記されていないだけです。
また、領布開始日についてもこの日に札が領布されたことを示すものではなく、初めて領布された期日を記しているものと思われます。

そして発行者について「清水家」は山崎家が旗本であった時代からの江戸藩邸の重臣であり、
「備中成羽藩史料」という書籍の中にも「山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形」という文章の中にこの清水家と思われる名が記されています。

また発行元としてもう一つ個人名「林氏」がありますが、こちらも山崎家の高官であった可能性が高く、この林氏について専門に研究されている方がいることを十番稲荷神社社家からお伺いしました。さらに「翠露堂」については全くの不明でその解明が待たれます。

これら11種類の効能書きを見てきて非常に大きな疑問が残された。
がま池に大ガマが現れそれから上の字札の領布が始まったことが伝えられていますが、
その大ガマ出現したのは、





となっており、いずれも江戸末期のことでした。しかし、11種類の効能書きには江戸期のものがほぼ一つもありません。このことから.......がま池の上の字札の領布が始まったのは明治期になってからではないかという疑問です。

しかし、一方では江戸末の文化・文政期には邸内社信仰が大流行し、

文化十四年1817年 讃岐丸亀藩-虎ノ門金比羅宮の爆発的な隆盛
文政   元年1818年 久留米藩有馬家-赤羽橋 水天宮の大流行
文政   四年1821年  交代寄合(旗本) 山崎家 がま池に大ガマが出現?~上の字札領布のはじまり


というきわめて自然な流れで大身旗本の副職(アルバイト?)の成立が想像されます。

このがま池上の字信仰の隆盛は明治期であると思われ、「幕末明治女百話」では、


山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の 、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、 八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を 貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い 事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁ひと ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費が つづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって 火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が
癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。
ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、 ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだとよく話してでした。
麻布区山元町三五番地

として上の字札の売り上げが莫大であったことを伝えます。
この清水家について廃藩置県で成羽藩が解体されて以降、麻布区山元町三五番地で上の字札の領布を行っていたそうですが、上の字札を書くにあたって、がま池の水ではなく井戸水が使用されていたことがわかります。この山元町の清水家跡は現在元麻布ヒルズ敷地となっています。ちなみに現在十番稲荷神社が領布している「上の字御守」はマンション管理会社の許諾により年に一度がま池の水をくんで書かれているとのことです。


また廃藩置県以降上の字札の領布を山崎家から委譲された清水家は、1927(昭和2)年に郷里の栃木県足利市に引きあげる際に、十番稲荷神社の前身である末広稲荷神社に上の字札の販売を委譲します。

これにより末広神社が上の字札の領布を始めることとなりますが、多くの書籍等には末広稲荷神社の上の字札授与が昭和2(1927)年からはじめられたと記されています。しかし十番稲荷神社で特別にお見せ頂いた社記(神社の業務日報?)複写には、

「昭和4(1929)十一月四日ヨリ社頭ニ看板ヲ掲ゲ参拝者ニ授与ス」

と、明確に記されています。







上の字札領布の変遷
江戸期~明治4(1871)年備中成羽領主・交代寄合(旗本)山崎家が自邸がま池池畔で領布
明治期~昭和2(1927)年清水家(成羽藩山崎家家令)が山元町三十五番地(現在の元麻布ヒルズ辺)で領布
昭和4(1929)年~昭和20(1945)年末広稲荷神社が領布
平成20(2008)年~現在十番稲荷神社ががま池の水を使用して領布。(十番稲荷神社は建物強制疎開により取り壊された末広稲荷と竹長稲荷が合祀)





現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」








現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」と効能書き


このようにがま池の大ガマ伝説を元にした「上の字御守」は変遷を重ねながらも現在も領布が続けられています。


◆関連項目

DEEP AZABU 麻布七不思議-がま池

十番稲荷神社公式サイト








★20150811追記-井上円了が否定した「上の字」信仰


このがま池の大ガマ伝説を元とする「上の字」信仰について明治期にその効能を完全否定する人物が現れます。
その人物の名は井上円了といい、東洋大学の創立者であり超自然現象を哲学的な立場から解明しその怪異性を否定する「お化け博士」、「妖怪博士」と呼ばれた人物です。
そして、この井上円了は「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明した人物としても有名で、2011年10/12歴史秘話ヒストリア「颯爽登場!明治ゴーストバスター~“妖怪博士”井上円了~」というタイトルで放送されました。


また、井上円了は妖怪研究に関する書を数多く著しており、青空文庫にも数多く収録されています。その著書の一つ「迷信解」の中ではこのがま池上の字札に触れており、

(引用はじめ)~ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。~(引用終わり)
と記して上の字札の代わりに名刺を使って患部をさすっても同様の効果があったとして上の字札の迷信性を強調しています。
この円了の対局にいたといわれているのが民俗学者の柳田國男です。柳田は民俗学的見地から「非科学的な迷信も共存すべき」と唱えることになります。


○井上円了
哲学的見地から「妖怪」を解明することにより其の存在を否定。妖怪排除のための妖怪研究。→迷信の排除。



○柳田國男
民俗学的立場から「妖怪」を肯定。民間伝承の重要性から妖怪も自然の一部としてとらえていた。→迷信との共存。


という構図になり、両者は思想的には対立関係にありました。


















2015年1月31日土曜日

赤穂浪士預け入れ大名邸考

いままで赤穂浪士関係の話をいくつかご紹介してきましたが、それらを調べる中でいつも疑問に思っていた事があります。
それは、江戸市中は広大な広さを持っているにもかかわらず、なぜ赤穂浪士が預けられた大名家は麻布、芝、三田、高輪などいわゆる港区域内の一部に集中していたのかという疑問です。
当所は漠然とした疑問で、お預け大名家の屋敷がたまたま集中していたからではないかと思っていました。

しかし、ある大名家を中心に考えてみるとその疑問が氷解します。
その大名家とは.....上杉家です。

広く知られているように赤穂事件当時の上杉家当主は綱憲で吉良上野介義央の実子の長男でした。またこの綱憲の次男は跡継ぎのいなくなった吉良家に入り、上野介の養子(血縁上は孫)となります。
これにより吉良邸討ち入りの報が入った上杉家では当主綱憲が激怒の上、追っ手を差し向けることが決まります。そして上屋敷には上杉家臣が集結したとされています。【上杉家上屋敷は現在の法務省庁舎あたり(千代田区霞が関1-1-1)】

しかし、上杉家の縁戚である高家・畠山義寧による諫止、幕閣による命令により上杉家軍勢は動くことが出来ませんでした。
そして討ち入りを果たした赤穂浪士は十二月十五日(討ち入りは十四日深夜)早朝、泉岳寺へと引き上げます。
もし上杉家が事件を知らせる一報で動いていたのなら、この引き上げ時に江戸市中での戦闘となっていたと思われます。
泉岳寺への引き上げ途中の汐留あたりで吉田兼亮・富森正因の2名は本隊と分離して大目付仙石伯耆守邸(現在の虎ノ門ニッショーホール)に出頭して討ち入りを報告します。
本隊は泉岳寺に到着しますが、昼近くには幕府により赤穂浪士の引き取りを命ぜられた各大名家の家臣が、深夜の雪から気温が上がって豪雨に変わった泉岳寺に集結しはじめます。
その引き取り部隊の人数は、
















赤穂浪士お預け四家
家 名 藩 主 領 地 藩 邸 現 在 石 高 護 送
藩 士
お 預
浪 士
主な浪士 備 考
細 川 越中守綱利 肥後熊本 高輪下屋敷 高松中学 54万石 847人 17名 大石内蔵助 最厚遇
水 野 監物忠之 三河岡崎 芝中屋敷 慶應仲通り 5万石 153人 9名 間重次郎光興 細川家に続いて厚遇
毛 利 甲斐守綱元 長門長府 日ヶ窪上屋敷 六本木ヒルズ 6万石 200余人 10名 岡島八十右衛門 冷遇後改善
松 平 隠岐守定直 伊予松山 愛宕上屋敷 慈恵医大 15万石 304人 10名 堀部安兵衛 1泊のみ滞在
三田中屋敷 イタリア大使館








やや冷遇





となっており、引き取る人数に比べ異常とも思われる護衛人数となっています。これらはひとえに上杉家の襲撃を恐れたためと考えられ、もし赤穂浪士の自邸への輸送中に上杉家に奪われるか殺傷されてしまうと自家が取りつぶされてしまう可能性もあったためと推測できます。

そして十二月十五日夕刻、手違いにより泉岳寺に集結してしまった預け入れ大名家家臣と赤穂浪士は虎ノ門にある大目付仙石伯耆守邸(現虎ノ門ニッショーホール)へと向かうこととなります。この行程では沿道の大名各家は幕命により門を開いて護衛がかがり火を火を焚くことを命ぜられ明るくなった三田通りから飯倉四つ辻を通過してそのまま現在の櫻田通りを直進して仙石伯耆守邸へと向かいましたが、上杉家中屋敷があった(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)とは200mあまりしか離れておらず、まるで上杉家を挑発するような行程となっていました。

そして仙石邸で預け入れの沙汰を正式に聞いた赤穂浪士は深夜過ぎに分散して各家に向かいます。
この預けられた各大名家と上杉家中屋敷(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)、下屋敷(白金三光坂上現在の服部ハウス辺)は非常に近く、まるで上杉家を事件後も挑発し続けたような配置となっています。

引き取り部隊に最も多くの人数をあてた熊本藩細川家は下屋敷が泉岳寺のすぐ近くであるにもかかわらずたった17名を引き取るのに850名もの人数を出しています。これは熊本藩細川家下屋敷(現在の高輪総合支所、区立高松中学辺)と、上杉家下屋敷(現在の三光坂上服部ハウス辺)の直線距離は400mほどであったことが原因であると考えられます。また同様に上杉家中屋敷(現麻布郵便局、外務省資料館)と長府藩毛利家上屋敷(現六本木ヒルズ)間も680mほどの近距離であり、ともに上杉家の鼻先に獲物をぶら下げたような状態であったと考えられます。
個人的な見解ですが、これらは将軍綱吉とそのブレインの幕閣(主に柳沢吉保)による策略では無いかと思われ、まるで上杉家の目の前に赤穂浪士という生き餌をぶら下げるよう
な状態は預けられた十二月十五日から赤穂浪士が預け入れ大名邸で切腹する翌元禄16(1703)年二月四日までの二ヶ月弱続くこととなります。

この将軍とそのブレインによる計略は吉良上野介を隠居させて江戸城から遠い当時は僻地であった川向こうの本所に屋敷を与え、それにより赤穂浪士の討ち入りを許すこととなったという事例からすでに一度成功を収めているとも思われます。
そして、綱吉が将軍の間に取りつぶされた大名家は、以降幕末までの各将軍が取りつぶした大名家の合計より多とされています。

残念ながら上杉家は綱吉の計略?どうりに取りつぶすことは出来ませんでしたが、吉良家の血が入った吉良系上杉家は末期養子によるペナルティと、高家出身という地位から莫大な浪費に苦しむこととなり、しまいには商家も掛け売りをしなくなり、藩籍返上も考えていたとされています。そしてその瀕死の上杉家は後に九代当主となる上杉鷹山を高鍋藩(上屋敷は現麻布高校敷地)から迎え入れることとなります。

その他にも麻布周辺には赤穂浪士関係のポイントが多数あり、時代は一致しないものもありますが、

  • 先日まで使用されていた麻布図書館仮庁舎の場所には事件解決を先導したと思われる「出羽藩柳沢家」の屋敷。
  • 東麻布いーすと商店街付近にはて浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめた多門伝八郎屋敷。
  • 大黒天栄久山大法寺対面付近にあった吉良上野介義央麻布屋敷。
  • 有栖川公園にあった赤穂(常陸笠間)藩下屋敷(後に赤坂盛岡藩南部氏邸と相対替え)
  • 柳沢家家臣から綱吉顧問となり赤穂浪士切腹論首謀者となる荻生徂徠の墓(魚籃坂下長松寺)
  • 討ち入り後離脱したとされる寺坂吉右衛門本墓(泉岳寺は明治期に造られた供養墓)がある日東山曹渓寺(南麻布)

などがあります。

元禄赤穂事件ネタを時季外れと思われる1/31に書いているのは、討ち入りが行われた旧暦12/14は、現在の暦に直すと2/3(正確には2/4早朝)で季節的には今頃のことで、雪が降っていてもちっともおかしくない季節でした。(元禄15年十二月十四日は1703年1月30日でしたので訂正させて頂きます)

また元禄16(1703)年二月四日は預け入れ各藩邸において赤穂浪士が切腹を果たした日でもあり、二月と赤穂浪士は深い関係がある月となっています。








より大きな地図で 赤穂浪士関連史跡 を表示






◎関連事項

★赤穂浪士の麻布通過
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_14.html

★ニッカ池(赤穂浪士)
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_9.html

★南麻布の寺坂吉右衛門
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_11.html

★麻布の吉良上野介
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_13.html

★日ヶ窪生まれの乃木希典
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_10.html

★増上寺刃傷事件
http://deepazabu.blogspot.jp/2013/06/blog-post_14.html















2014年11月12日水曜日

続・桜田町にすぎたるもの(絵図に描かれた桜田町の半鐘)

「麻布広尾辺絵図」中央部
以前Blogで「桜田町にすぎたるもの」というタイトルで麻布桜田町にあった町持ちの簡易な「半鐘(高梯子)」と久留米藩有馬家上屋敷(現在の三田国際ビル・都立三田高校・国際福祉大学三田病院などを含む旧赤羽町域)の藩邸内に設置されていた「火の見櫓」とについてお知らせしました。

この「火の見櫓(久留米藩は大名火消し)」は江戸で一番高い櫓でランドマークとして多くの浮世絵などに描かれています。しかし、もしかしたらその有名な火の見櫓よりも、麻布桜田町など高台の尾根に設置されていた町内持ちの簡易的な火の見用の高梯子・半鐘の方がもともと設置されている標高が高いためよく鳴り響いたのでは?という素朴な疑問を調べてみました。
しかし実際桜田町の高梯子がどこに設置されていたのかは不明のままでした。しかし最近その桜田町の半鐘を描き込んだ地図を見つけたので、ご紹介します。

地図は「集約江戸図」という図集の中の「麻布広尾辺絵図」という地図で嘉永二(1849)年に作製された物で、地図上櫻田神社と境内にあった別当寺の観明院が描かれている前あたり、玄碩坂(げんせきざか:現在のけやき坂付近)を登り切ったあたりに「高梯子」と「半鐘」が描かれています。


絵図「半鐘」部分拡大
本当に梯子の上部に半鐘が付いただけの簡単なものですが、この鐘が桜田町の人々に火事を知らせ、命を守ってきたのだと思われます。
また、同様に一本松付近の大黒坂上に設置されていた明治初期のものと思われる半鐘の画像が見つかりました。
桜田町の半鐘も一本松の半鐘も共に標高30mほどの尾根にたてられており、5mの梯子に半鐘が設置されていたとしても35mの位置から打ち鳴らすこととなり、谷底の麻布十番や日ヶ窪までよく鳴り響いたことが想像されます。

この地図は麻布の中央部がかなり詳細に描かれており、よく鳴り響きそうな半鐘は他にも多くありそうですが、実際に「半鐘」が描かれているのはこの桜田町のものだけです。この桜田町の半鐘については麻布区史桜田町の項に、

「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」
 

と記載されていることからも、当時から有名な半鐘であったことが伺えます。





現在の同所付近
一本松脇の高梯子と半鐘(明治初期)























★この絵図に描かれたその他の特記事項は下記。









  1. 玄碩坂
  2.  櫻田神社・別当:天台宗観明院
  3.  大横町坂(富士見坂)
  4.  湯長谷藩内藤稲葉守上屋敷(超高速参勤交代の舞台)
  5.  阿部播磨守(沖田総司の父がこの屋敷に仕官していた)
  6.  専称寺(沖田総司墓所)
  7.  ごみ坂(紺屋坂)
  8.  長府(長門府中)藩毛利家上屋敷(赤穂浪士切腹・・・乃木希典誕生地・・・ニッカ東京工場跡・・・ニッカ池・・・六本木ヒルズ)
  9.  小見川藩内田豊後守上屋敷(通称:内田山・現南山小学校・六本木高校・井上馨邸)
  10. 増上寺隠居所(歴代増上寺監寺の隠居所・麻布氷川神社元地)
  11. 暗闇坂(明治期の地図には「幽霊坂」とある)
  12. 宗英屋敷・貞喜屋敷(宗英は将棋所(幕府の官制で、将棋衆を統括する役。貞喜屋敷は西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷)
  13. 鳥居坂
  14. 麻布十番商店街
  15. 朝日稲荷神社(現・六本木朝日神社:別当は麻布氷川神社境内の徳乗院だが専称寺とも関
  16. 芋洗坂






有馬家火の見櫓を模した中ノ橋欄干
解体中の有馬家火の見櫓(実物)












桜田町高梯子から見た東方面の風景
(場所:けやき坂上 標高:地面標高31m+梯子7m=38m)
※標高は1.5倍増に設定











2014年8月21日木曜日

村岡花子の通勤路


今回は今週から放送されている「花子とアン」において愛宕山のJOAK(NHK東京放送局)で村岡花子が「コドモの新聞」アナウンサーになってゆく姿が描かれていますが、芝区愛宕山までどのような交通手段で通勤していたのだろうという素朴な疑問がわきました。

少し調べてみると、村岡花子の自宅は大田区春日橋(環七・池上通り交差点)付近(現大田区中央三丁目)でしたので、愛宕山のNHK東京放送局へ行くには、下記の方法が考えられます。



 

村岡夫妻の住居跡で後の赤毛のアン記念館(閉館)

 

 

 

 

 

赤毛のアン記念館
2014年閉館し資料は東洋英和女学院に譲渡されました。

 


 

★JOAK(NHK東京放送局)がある芝区愛宕山への出勤

  1. 大森駅→(JR)→浜松町駅→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局
  2. 大森駅→(JR)→品川駅→(市電系3統)→神谷町or西久保巴町→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局
  3. 学校裏駅(現平和島駅)→(京浜線:現京浜急行)→北品川駅→(市電系3統)→神谷町or西久保巴町→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局
  4. 大森駅→(JR)→田町→(徒歩)→三田→(市電系37統)御成門or愛宕町→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局

この中で可能性が高い通勤路は2or3or4となり、やや徒歩距離が長い①は除外しても良いと思われます。
しかし放送は毎週日曜日でしかもアナウンサーは村岡花子と東京中央放送局児童課の職員であった関屋五十二が各週で交代したため花子の通勤は打ち合わせなどを入れてもさほど多い出勤ではなかったと思われます。
私自身が若い頃この春日橋付近に住んだ経験があり、そのとき私自身も通勤には京浜急行平和島駅ではなく、少し距離は遠くなりますがJR大森駅を使用していましたので、花子も同様に②の経路を使用していたのではないかと私見ながら想像しています。
また花子が働いていた出版社「聡文堂」はドラマ上の名称で「日本基督教興文協会」が本当の名称です。そして震災後「教文館」と合併し現在に至ります。ドラマ上では花子と?三が結婚したのは1919(大正8)年ですが、結婚後も花子が教文館での勤務を続けたのならば、やはり大田区春日橋から銀座への出勤となり、下記の通勤路で通勤したものと思われますが、
最短距離で、運賃も安い1がもっともあり得る通勤方法だったと思われます。

  

 

大正14年市電路線図
 

 

 

 

現在のHNK放送博物館

 

 

 

 

J.O.A.K開局当時の模型

 

 

 

 

コドモの時間

 

 

 

 

 

 

 

 

●教文館オフィシャルサイト
     http://www.kyobunkwan.co.jp/



★日本基督教興文協会(後の教文館)がある銀座への出勤(毎日?)

  1. 大森駅→(JR)→有楽町駅→(徒歩)→日本基督教興文協会(後の教文館) 
  2. 大森駅→(JR)→品川駅→(市電系1統)→銀座四or銀座二→(徒歩)→日本基督教興文協会(後の教文館)



以上、村岡花子の通勤をシミュレーションしてみましたが、この権に関しては私DEEP AZABUの想像と勝手な解釈であることをお断りしておきます。




現在の銀座教文館







教文館館内










村岡花子宅周辺









2014年8月15日金曜日

超高速参勤交代の麻布

文化江戸図
この夏に公開された映画「超高速参勤交代」は、八代将軍吉宗の時代に磐城国の小藩湯長谷藩が所持する金山を奪おうと、藩の取りつぶしを図る老中・松平信祝(大河内松平家で知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の末裔)の計略により、江戸在勤を終え国元に帰ったばかりの湯長谷藩主内藤政醇に再び江戸参府の命が下り、なんと5日以内に 参勤交代を命じられる。という筋のフィクションです。  
実際の映画では終盤江戸入りをした藩主一行がたどり着いたのが政醇の妹「琴姫」が留守を預かる江戸藩邸でした。残念ながら屋敷の描写はほんのわずかですが、おそらく一行がたどり着いたのは麻布桜田町の上屋敷かと思われます。
また下屋敷であったとしても、その場所は曹渓寺隣りなので同じ麻布内ということになります。
史実ではこの小藩は立藩以来内磐城の地(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町)を拝領したまま、幕末を迎えるまで一度も領地替えがありませんでした。





この藩の立藩当時の様子は以前、「増上寺刃傷事件」でもお伝えしましたが、初代湯長谷藩主の父である磐城平藩7万石の2代藩主内藤忠興が新田分地により
東都麻布之繪圖(上屋敷付近)
新たに生まれた領地を二男の内藤政亮に分地することを願い出て、寛文十年(1670)年2月、忠興が隠居するにあたって幕府から許可が下りて磐城湯長谷藩
一万石が成立します。この時内藤政亮は本家の内藤家に憚って遠山姓を名乗り(第3代藩主・政貞の代になって内藤姓に復帰します)遠山政亮となります。  




この遠山政亮は、延宝八(1680)年芝増上寺で執り行われた四代将軍徳川家綱の法要式典で、内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長を刺殺する。  
という事件が起こった時に、刀を持ったままの内藤和泉守忠勝を後ろから取り押さえました。政亮はこの功績により幕府により二千石を加増され、さらに大阪定番職となり三千石を加増されて湯長谷藩は 一万五千石となります。この取り押さえは後の元禄十四(1701)年3月14日に起こった浅野内匠頭による刃傷事件の際に浅野内匠頭を後ろから取り押さえた 梶川頼照(通称:惣兵衛)とほぼ同じ役割となります。この事件で幕府により五百石の加増を受けた梶川頼照は以前の所領と合わせて 合計千二百石となりました。  
東都麻布之繪圖(下屋敷付近)




積年の恨みとも、上屋敷が隣接していたための争いともいわれるこの増上寺刃傷事件ですが、湯長谷藩にとっては幸運であったのかもしれません。  
この湯長谷藩の江戸における藩邸として上屋敷は桜田町(現在の港区西麻布3丁目辺)に、下屋敷は古川町(現在の南麻布2丁目辺)にあったようですが、立藩以来同じ場所にあったと思われる両屋敷のうち
下屋敷については安政四(1857)年作成された「東都麻布之図」などには記載がなく、同じ場所には別の家名が書かれています。 
しかし、「東都麻布之図」からわずか3年後の万延江戸図「万延元(1860)年」には曹渓寺に隣接するあたりにこの長谷藩下屋敷が描かれています。
また、これらより古い地図にも湯長谷藩の下屋敷が同所に散見されることから何故一時期のみ地図に記載がないのかは謎のままです。  
いづれにせよ映画の中の終着点はおそらく麻布桜田町の上屋敷であると思われ、参勤交代の行列は福島県いわき市から江戸府内麻布桜田町までの行程となりその距離は
萬延江戸図
短期間で二度も行うには労力も費用も頭痛のタネであったことがフィクションながら想像されます。


余談となりますが、この湯長谷藩邸が書き込まれている万延江戸図が描かれた万延元(1860)年は、麻布においても一般的な歴史事項についても興味深い事件などが頻発している年でもあります。


















































現在の麻布中央部












現在の上屋敷付近














現在の下屋敷付近


























1860年(安政7年・万延元年)
西 暦 元 号 月 日
事   象
1860年 安政七年 01/07 米国船ポーハタン号が品川港に入る。
01/19 木村摂津守、勝麟太郎、福沢諭吉などが乗船する咸臨丸がアメリカに向けて浦賀を出港。
01/22 遣米使節新見正興一行が浦賀を出帆(鎖国以来初めて公然の外交使節)
01/29 イギリス公使館通弁「伝吉」刺殺






03/03 桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺される。
万延元年 03/18 安政から万延と改元。
09/28 明治天皇立太子の御儀行われる。
12/05 「米国書記官ヒュースケンが麻布中の橋にて攘夷派浪士に襲われ、夜半過ぎに死亡。-ヒュースケン事件
12/08 ヒュースケンの葬列がプロセイン海兵隊が厳重警備する中、
麻布山善福寺から光林寺まで進み葬儀が執り行われた。
12/16 英仏両公使、ヒュースケン殺害事件に憤慨し公使館を横浜に移転するも
アメリカ公使館ハリスのみは横浜に引き上げず麻布山善福寺にそのまま滞在。

























★関連事項
Blog DEEP AZABU-増上寺刃傷事件

Blog DEEP AZABU-麻布桜田町

超高速参勤交代オフィシャルサイト

Wikipwdia-超高速参勤交代

Wikipwdia-湯長谷藩




























2014年4月9日水曜日

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布


前回 「花子とアン」の麻布をお伝えしましたが、今回はその話の原作とされている「アンのゆりかご」に描かれた麻布をご紹介します。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」のシナリオの元となる原作「アンのゆりかご」は村岡花子の孫である村岡恵理が表した祖母の伝記です。
これにより、ドラマよりも細かく村岡花子の生涯が描かれています。

まず目に付くのは、ドラマでは花子が10歳の時に甲府から上京して、いきなり東洋英和女学校(ドラマでは修和女学校)に編入学することになっています。しかし、「アンのゆりかご」では、5歳で一家そろって上京し、現在の南品川(京浜急行青物横丁付近)に居を構え、葉茶屋(茶葉の販売店)をはじめたとしています。
そしてその上京はドラマよりも厳しいものであったようで、「親戚とのしがらみに決別して」の上京と記していますが、残念ながらドラマのシナリオでは、品川在住の部分がすべて欠落しています。

さらに、ドラマでは花子が甲府在住時に大病により生死を彷徨ったことになっていますが、実際には花子が南品川に住んでいた7歳の年に起こったことのようです。
その際辞世の句を詠んだのはドラマと同じで、



          まだまだとおもいすごしおるうちに


               はや死のみちへむかうものなり



と詠んでいました。
そして病気が回復した後には、



      まなびやにかえりみればさくら花 

               今をさかりにさきほこるなり







と詠んだそうです。ここでいう「まなびや」とは上京の翌年に入学した城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)のことで、この小学校には花子が10歳(4年生)まで在籍することとなります。

やや話は前後しますが、この「アンのゆりかご」第一章では冒頭、

~明治36年(1903)春-、10歳になる花子は父に手を引かれ、麻布、鳥居坂の桜並木を歩いていた。~中略~花子たちの脇を、友禅の和装姿の貴婦人を乗せた人力車が通り過ぎて行く。長く連なる赤レンガの壁に囲まれるのは、華族や貴族と呼ばれる特権階級の屋敷である。久邇宮家、三条公美邸、実吉安純邸、明治維新の立役者である大鳥圭介邸、韓国皇太子が暮らす李王家など、貧しい平民の花子にとっては雲の上の人々が暮らす一帯は、近寄りがたい威厳をたたえていた。~(アンのゆりかごP32)

っと、当時の麻布の様子を描いています。この花子が父に手を引かれて歩いた桜並木の先には、もしかしたら当時麻布でも江戸期からの有数の銘木として知られ、太田蜀山人にも、

      永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦

と詠まれた「岡の桜」(現在の麻布総合あたりにあった)も含まれていたのかもしれません。

1903(明治36)年、10歳の花子は東洋英和女学校へ給費生として編入学することとなり、東洋英和女学校寄宿舎での生活が始まります。つまり、この年から20歳で高等科を卒業する1913(大正2)年までの10年間、花子は麻布に居住していたこととなります。

また、この東洋英和への編入学には父の強い希望により実現したのもドラマと同じですが、その背景に品川に暮らしていた家族の犠牲という悲しい側面も持ち合わせていたようです。家族の生活は上京後にさらに困窮を深め、8人兄弟のうち、長女の花子以外の子供は次女と三女の外は全員養子などより親元を離れることとなります。

さらに、東洋英和での生活は苦労の連続であったことが記されていますが、ドラマでブラックバーン校長として登場するの第三代東洋英和女学校校長のブラックモアは校長を4度も務めた方のようで、その写真が「アンのゆりかご」に掲載されています。特に67ページに掲載された、

「明治中期、カナダ・メソジスト協会本部から東洋英和女学校に派遣されてきた婦人宣教師団」

というタイトルのつけられた写真の中で、ブラックモア校長が最後列に写されています。そしてこの写真の中央部には第2代校長のMrs.ラージが写されています。このMrs.ラージは、以前お伝えした東洋英和女学校寄宿舎で起こった強盗殺人事件で夫を殺害され、自身も指を2本失うという重傷を負うこととなる女性です。この事件により重傷を負ったMrs.ラージが帰国するにあたって校長職を継いだのがブラックモアでした。

また同頁に掲載された写真は1900(明治33)年に女学校創立地の潮見坂坂下から現在の校地に移転したばかりの綺麗な校舎・寄宿舎がうつされており、さらに30年後にはヴォーリス設計による校舎へと変貌することとなります。

そして、「アンのゆりかご」は、給費生として寄宿生活をおくる花子たちの様子と、十番商店街の接点も描いています。

~入学して半年ほどたったある日、同室の上級生が放課後、花子を誘った。
「ご一緒にデザートを買いに行きましょう」寄宿舎に「デザート」を持ち込むことは許されており、それは寄宿生の大きな楽しみであった。~中略~鳥居坂を下り、麻布十番の商店街にある松源堂という和菓子屋に入ると、そこにはすこぶる大きな金つばが売られていた。~(アンのゆりかごP48)


「十番わかふるさと」大正期の地図
などどあり、当時の彼女たちの最大の楽しみが「甘味」であったことが記されています。
ちなみに、この「松源堂という和菓子屋」ですが、稲垣利吉氏の著書「十番わがふるさと」巻頭の「大震災前の(1923)麻布十番商店街」というタイトルの地図に「和菓子松玄堂」と記されているのが同店で、現在は麻布薬局(麻布十番1-8-9)となっている辺りだと思われます。



さらに「アンのゆりかご」第三章では1908(明治41)年~1913(大正2)年の動きとして「孤児院での奉仕活動」を取り上げています。

前回お伝えしたとおり、給費生として東洋英和女学校に編入学した花子には「孤児院での奉仕活動」が義務づけられていました。
そこで、時代的にも合致している永坂孤女院での奉仕活動と、開院時の集合写真に花子が写り込んでいる可能性を東洋英和女学院史料室に調査に訪問したのですが、この書籍では花子がその永坂孤女院で奉仕活動をした可能性を完全に肯定しています。
当時の寄宿生は隣接する麻布教会(現在の鳥居坂教会)での日曜学校と聖日礼拝に出席することが義務づけられ、さらに書籍はこのように記しています。

~午前中、麻布教会の礼拝に出席する前に、花子たち数名の給費生は給費生の必修として、東洋英和女学校が運営している孤児院「永坂孤女院」の日曜学校に教師として出向いた。~」(アンのゆりかごP71)


そして岩崎きみちゃん(文中では佐野きみ)が同時期に孤女院にいたことも記されており、書籍には、

当時日曜学校の教師として孤女院に赴いていた花子が、自分の読書経験を生かし、身寄りのない孤児たちに、物語を語り聞かせていた。(アンのゆりかごP72)


と記してきみちゃんと、その孤児院で行われていた日曜学校の先生である花子の面識をほのめかしています。ちなみに当時この日曜学校は麻布中学を創立した江原素六が校長を務めていました。よってこの書籍にはありませんが、おそらく江原素六と花子に面識があったと考えるのが妥当かではないかと思われます。

これまで「花子とアン」と麻布の関係、そしてその原作となる「アンのゆりかご」における麻布との関係をご紹介してきましたが、ドラマの方は麻布での寄宿生活が始まったばかり。今後の展開も楽しみですが、ドラマのシナリオと原作との違いなども確認しつつ、ドラマをより一層楽しむために是非「アンのゆりかご」のご一読をお勧め致します。









 




                    


アンのゆりかご 村岡理恵 著










★関連項目

「花子とアン」の麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん