2012年11月14日水曜日

杉田屋敷のお稲荷さん

宮村町路地奥の
お稲荷さん
「伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと言われるほど江戸の街にはお稲荷さんが多かった。これは赤いのぼりや鳥居が派手で、景気がよさそうだったので江戸っ子の気性にあったためともいわれていまする。そして、私が子供の頃の宮村町にも路地の奥にいくつものお稲荷さんがあったのを覚えています。(画像は宮村町本光寺脇路地にあったお稲荷さん。)


寛政の初め頃、麻布笄橋の杉田五郎三郎という大御番の屋敷にある稲荷が、霊験あらたかで願い事が良くかなうと言う事で江戸の評判になり、参詣者が絶えなかったそうです。
最初は近所の老婆がお参りをして願い事がかなった程度の事でしたが、寛政8年(1796年)の秋に大身の奥方が、供を6~7人連れて豪華な籠に乗り杉田家に来て、霊夢を見たので是非その老婆に祈祷をしてもらいたいと願い出ました。これを聞いた杉田家では老婆の祈祷などとんでもないと断りましたが、「霊夢ですから」と哀願されやむを得ず、稲荷を拝ませ老婆を呼んできて腹などをさすらせたそうです。その日はそれで終わりましたが、後日その奥方が再びやって来て、あの日から病が目に見えて良くなりついに全快したので、お礼参りがしたいとたくさんの奉納品を置いて拝んでいったそうです。この話しがいつのまにか江戸中の人々に伝わり、稲荷は一躍有名になっておびただしい参詣者が訪れるようになったといいます。

御小姓組与頭、河野鉄太郎の三男なども痔の病で永年苦しんでいましたが、この稲荷にお参りして全治したといい、ついにこの稲荷の世話人となりました。当初、参拝した後、望みの者に洗米を分ける程度だった稲荷も翌、寛政9年にはあまりの参詣者の多さに、番号順に老婆に祈祷させ洗米を渡すようになり、おかげで老婆は多忙を極め、ついには日を決めて祈祷の受け付けをする事とし、それでも老婆だけでは手が廻らないので、二百人の限定としました。
しかし遠方から来たものはなかなか順番が廻ってこないので、ある日これが元で大喧嘩が起きてしまったそうです。これによりお上からの後難と外聞をはばかった杉田家では、早速無縁の者の参拝を禁止してしまい、以降この稲荷に参拝する者もなくなり、やがて元の静かな稲荷に戻ったといいます。



江戸末期の笄橋辺
 
江戸時代、武家屋敷内の寺社(邸内社)には赤羽橋の水天宮、芝の金毘羅宮、宮村町のがま池のがま信仰などの様に、多分にお札、祈祷などの副収入を見込んだサイドビジネス的なニュアンスが漂うのが常であったのですが、この杉田家はきっぱりとそれを断ち切っているのがかえって清々しいですね。


















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