2012年11月29日木曜日

宮村町の川端康成


1926(大正15)年文芸時代1、2月号で伊豆の踊子を発表した27歳の川端康成は、同年3月31日に伊豆湯ヶ島から上京し、その足で麻布宮村町大橋鎮方に寄宿することとなりました。場所は新潮日本文学アルバムの裏表紙に掲載された手書き地図を見ると宮村町新道狐坂下界隈のようですが、おそらくかなりの年月を経た後に回想しながら書かれた地図のようで不明瞭な部分があり、確かな位置の断定は出来ません。 
宮村新道から宮村坂方面
しかし、その場所は長玄寺下あたりか狐坂から宮村坂(宮村坂は昭和2(1927)年に開通しているので、1926(大正15)年当時はまだなく行き止まりの路地であったと思われます。)方面に入ったあたりだと推測されます。

当時の部屋の様子を「伝記 川端康成」は、川端が「見もせずに2月から借りていた」部屋らしいとしながら、


白木屋で枕と寝間着を買ひ、バスケットと風呂敷包みと「古雑誌など詰めしサイダア箱」だけをタクシイに積んでの下宿入り
と記しており、また、川端はその日の日記に、




幽霊と地獄にでも平気で住み得ると思ふが、僕平常の覚悟なり。何時にても飛び去り得るといふか、僕の唯一の条件なり。

仮寓地図
などと書き、また「貸蒲団にもぐりこみ」というような無造作な下宿ぶりを記しています。

しかしこの文章で書かれた幽気でも感じたのか、複数の川端康成関連の年表を見ても、4月には市ヶ谷左内町26にある菅忠雄の家に移転し、管の留守を預かっていた松林秀子との生活を始めた事が記されています。よって川端の宮村町生活は残念ながら、数日から長くても数週間であったと思われます。








★20140709追記

この数日間という川端康成のわずかな麻布宮村町西端の仮寓ですが、この仮寓先と思わ
れる場所が作品に使われていました。
1940(昭和15)年婦人公論1月号に発表された「母の初恋」という短編小説では、


 主人公の佐山が銀座で偶然、昔の恋人民子と出会い、ぜひ娘・雪子を見てほしいと言う
民子に従い、母子二人暮らしの麻布十番の裏町の新居に寄った。この様子を小説は、

~麻布十番の裏町の家では、水兵服を着た雪子が、粗末な机で勉強していた。女学校に通っているのだろうか。

御挨拶しなさいと民子が呼ぶと、雪子は立って来て、少女らしいお辞儀をしたが、その後は、黙ってうつ向いていた。~

と、記しています。







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