2012年11月18日日曜日

亥之吉の災難

明治の世になっても江戸の辺境であった麻布には、多くの不思議話が残されていますが、
今回は、1879(明治12)年4月25日付の東京曙新聞に掲載された麻布で起こった不思議な事件をご紹介します。

掲載される2~3日前の雨の夜遅く、麻布飯倉町30番地にある人力車の車夫を生業とする亥之吉の家の門を叩く者がありました。
その者は門をたたきながら狸穴まで大急ぎでお願いしたいと女性の声でいったそうです。
しかし亥之吉は雨が降っているし、夜も遅いのでもうお終いにしましたと伝えたが、

「車代は幾らでもお望み通り払うから、行って欲しい」

と、いわれ欲が出た亥之吉が雨戸を開けて客を確かめてみると17、8歳くらいの美人でした。
そこで亥之吉は、大急ぎで仕度を整えその女性を乗せ、これはきっと色恋沙汰で男の跡でも追いかけていくのだろうと考えながら狸穴坂の下まで行くと、

「この辺で結構です」

と言われたので車にかけてあった雨覆いを上げてみると、どうしたことか人力車は空っぽで、
びっくりした亥之吉は腰を抜かしてしまいました。

そしてしばらくすると狐狸の仕業と気がついて、仕方なしに家に戻ろうと車を引き始めましたが、不思議な事に同じ場所を何度も廻ってさまよってしまったそうです。そして夜が白々と明けてきてようやく薄明かりで家にたどり着いた亥之吉でしたが、その日は気が抜けたようになり商売に出る事が出来なかったといいます。

新聞は、

「全く物の怪に魅せられたのかまたは寝ぼけて惑乱したのか、怪しいことだが嘘ではない。」

と結んでいます。




飯倉町は江戸期から一~六の「丁目」と飯倉片町・飯倉狸穴町・飯倉永坂町・飯倉新町・飯倉的場屋敷・飯倉町続芝永井町代地・飯倉町続芝永井町上納地代地などを持つ大きな町名でしたが、この新聞にはその何丁目かの記載が欠落しています。よって、亥之吉の住居「飯倉町30番地」を特定することは難しいのですが、いづれにせよ飯倉町から狸穴坂下までの、ごく短い距離をこの「幽霊さん」は乗車したものと思われます。













麻布飯倉町明治・現在、今昔










飯倉町-東京35区地名辞典
「飯倉」は、麻布区中央部の広域地名。戦国期から見える古い地名である。
由来には諸説あり、伊勢神宮への貢米御厨を置いた跡に因むとする説、
文武天皇(在位697-707)の頃、貧民救済のための義倉(ぎそう)を置いた
とする説、飯倉山(芝丸山古墳)が飯を器に盛った形で、飯座(イイグラ)
といったことに因むとする説等、定かではない。中世の頃、この地は伊勢神宮の
神領に属し、御厨や義倉が置かれたことに疑いはなさそうだが、そのことと
地名発生とのつながりには確証がなく、穀倉の置かれる前から飯倉の地名が
あったともいわれる。芝の海沿いに街道が整備される以前、この地は往還(奥州道)
沿いの町並として発展し、飯倉町一~六丁目が成立した。