2012年11月9日金曜日

奇妙な癖のある人

「耳袋」から麻布にまつわるお話を、お届けします。

赤坂に九百石を領する旗本の岡野何某という人物がいました。その人物はまだ若年ですがその気性が大変に変わっていたといいます。
文化、文政年間(1804~1892年)の頃世間ではもっぱら陰徳(隠れて良い行いをする事)を積んでいる人を褒め称える風潮があったそうです。
岡野もまた陰徳家で、江戸市中の寺々をまわって、打ち捨てられた無縁の墓石などがあると従えた家臣に洗い清めさせた後に花などを供えて供養するのを道楽としていました。ある日、麻布の祥雲寺に詣でたところ、苔に覆われて碑銘も見えない大きな墓石があり、供養の様子もまったく見えない。そこで岡野は例によって従者に洗い磨かせると、久留米藩有馬中務大輔の娘の墓であることがわかりました。

岡野は、こんな大家の石碑が打ち捨てられているのは訝(いぶか)しい事だと思い、帰ると早速有馬家の知り合いに事を報告しました。知らせを受けた有馬家では担当の役人にその墓を調べさせたが、家中に知っている者はいませんでした。そしてさらに国元で調べてみると、何と数代前の主君の娘の墓であることがわかりました。そしてその結果を岡野に知らせると、岡野は何故そのような高貴な方の墓所が荒れ果てたままになっているのかと訊たそうです。

すると、この娘は姫でありながら身分にふさわしくない不届きを起こしたので父有馬氏により手討ちにされ、菩提寺にも葬ってもらえなかったそうです。困り果てた家臣が内々に取り計らってこの寺に埋葬したとの事でありました。そして、その後も父有馬氏の怒りは解けず、弔い、参詣を禁じたそうです。

事情を聞いた岡野は、「そのような事情であることはわかった。しかし、石碑なども残っているし、事から100年も経っている事でもあり今も捨て置くままにするのは、どう考えても不自然である。」と理をつくして述べました。その言葉が有馬家主君の耳に入ると「立派な人柄である上になお一層の正論である。この上は然るべく弔いを出すように。」と岡野を褒め称え、姫の法要を盛大に行いました。そして岡野家にも有馬家から生きの良い鯛や布地などを携えた使者が訪れ、その善行に感謝しました。しかし岡野は当然のことをしたまでで、進物をお受けできないと丁重に断り使者を帰しました。

すると有馬家主君は、なお一層岡野を気に入って「そういう事であるのならば、是非お目にかかってお礼をしたいので、当家にお越し頂きたい。屋敷の裏門から奥の小座敷へおいで下さい。」と再び使者を遣わし岡野に伝えました。しかし、岡野は「せっかくのお招きですので、参上したいと思いますが、自分も将軍から禄を頂く旗本でありますので、表門から参上し表座敷でお目にかかる事が出来ましたら伺います。さもなければ申し訳ございませんが、お断りいたします。」と言った。これを聞いた有馬家主君は「なるほど変わった御仁である。」と思ったが岡野の言うとおりに正式に表向きで対面することを許可し、岡野を正客として屋敷に招いたそうです。

数日後に有馬屋敷に赴いた岡野は、さまざまなもてなしを受けました。そして藩主から感謝の言葉をかけられさらに、何かお礼をしたいが何なりと言って下さいと訊ねられました。

岡野は当然のことをしたまでと断ったが、重ねて藩主が訊ねるのでついに岡野も折れて、当家お抱えの相撲が拝見したいといいました。藩主は快諾し、後日の再訪問を約束して屋敷を辞去しました。
そして、翌日岡野の元へ昨日の来訪のお礼にと進物が届けられましたが、今度は喜んで受け取りました。そして、貰った進物に倍する答礼を有馬家に送り感謝を表しました。すると今度は岡野の元に新鮮な魚の詰め合わせが届き、「今後は答礼などなさいませんように」とあったので、岡野は恐れ多いことと答えたといいます。この話を聞いた人々は筋の通った変人であると評判したといいます。





江戸末期の広尾周辺
文中の麻布の祥雲寺とは現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある瑞泉山祥雲寺だと思われますが、この寺は鼠塚(明治33年~34年、東京に伝染病が流行し、その感染源として多くのネズミが殺された。その慰霊碑)、曲直瀬流一門医師の墓などがある名刹です。

由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和9年(1623) に長政が没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立した。寛文6年(1666)年には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文8年(1668)の江戸大火により現在の地に移りました。とあり、この話の文化、文政年間(1804~1892年)にはすでに広尾にあったそうです。


一般的に江戸期の広尾は麻布領ではありませんでしたが、この広尾の祥雲寺門前は、江戸初期の万治2(1659)年に、暗闇坂と狸坂の狭間の土地で麻布氷川神社の社地であった土地を幕府が接収し、その跡地に増上寺の隠居所を造営したおりに、そのあたりに住んでいた宮村の住民も移動を余儀なくされ、代地として幕府から指定されたのがこの祥雲寺門前の「宮村町代地」でした。よってこのあたりの住民は麻布氷川神社の氏子として、 現在も祭礼に参加しているそうです。


麻布氷川神社祭礼神酒所
スタンプラリー 2009年
また麻布祥雲寺と同じように、現在も西麻布にある長谷寺も、やはり麻布長谷寺と呼ばれていました。しかし、こちらも周囲は原宿村などであったのですが、便宜上麻布を冠していたものと思われます。
しかし、この長谷寺周辺の上笄町も麻布氷川神社の氏子町会であることから、やはり麻布氷川神社の氏子が移住したのが始まりの「麻布領内」であったのかもしれません。












★2016.11.26追記

港区域の郷土史などを調べてDEEP AZABUサイトや町歩き、座学でのお話などをさせて頂いていると時々面白い方にお目にかかる事があります。今回はその第一弾!

それは....、有名な歴史事件、郷土史の説話や江戸期の都市伝説集などを紹介すると、その主人公の末裔の方からお声をかけて頂けることがあり、そんな中から今回は、第二十六代江戸南町奉行を長年勤めた根岸鎮衛が表し、その職務の中で聞き及んだ不思議話や都市伝説をまとめた書籍「耳袋(みみぶくろ)」の中に納められている「奇なる癖ある人の事」についてのお話です。

以前、私が管理する東京都港区周辺の郷土史や地域情報をお伝えするサイトDEEP AZABUのむかし、むかしコーナーで「奇なる癖ある人の事」をご紹介しました。するとその話の主人公末裔の方からFBのメッセンジャーでご連絡を頂きました。

この話の詳細は当サイトブログでご覧頂くとして、
 http://deepazabu.blogspot.jp/2012/11/blog-post_9.html

耳袋は正確には「耳嚢(※袋の旧字=機種依存文字)」で読み方も一般的には「みみぶくろ」としていますが「じのう」と読むのかもしれず正確にはわかっていません。

この耳袋は著者の南町奉行根岸鎮衛生存中(鎮衛は南町奉行現職のまま死去します)は門外不出でしたが、その死後は話の内容を聞きつけて拝借する者が後を絶たずそれが借りた部分だけを模写して世に出てしまったので、いくつものバージョンが存在し原本は関東大震災で焼失してしまったようです。
しかし、今世紀に入ってからUCLAバークレイ校で全話が掲載された完全な模写が見つかりました。

このように複数のバージョンが存在する「耳袋」ですが、今回私が読み返した平凡社昭和47年版です。しかし戦前に発行され柳田国男が編集しているバージョンなどでは掲載されている話は極端に少なくなっており、今回の「奇なる癖ある人の事」の原題「奇成癖有人の事(きなるくせあるひとのこと)」は掲載されていません。

FBメッセンジャーでご連絡を頂いた岡野氏はこの話の主人公岡野某(なにがし)の末裔か親戚筋に当たるそうで、ご先祖である主人公が笄橋付近にお住まいであったことをお教え頂きました。

そこで港区教育委員会発行の「近代沿革図集 麻布・六本木」に掲載された江戸末期の地図を精査したところ、笄橋付近に岡野虎之助六百五十石
と書かれた武家屋敷を見つけました。

ちょっと脱線しますが、現在の行政区分で麻布地区・六本木地区としているので仕方が無いともいえるのですが、実は六本木という地名は麻布に内包された地名で「麻布六本木町」が江戸期からの正式名称です。よって麻布と六本木は同格であるはずもなく、赤坂六本木町も芝六本木町も無いことからやはり「麻布・六本木」ではなく「麻布>六本木」が正確で「麻布の六本木」と言い表すのが正確だと考えています。

話を戻すと、この岡野虎之助について旗本百科辞典、江戸幕府旗本人名辞典、江戸幕府人名辞典などを使って調べると、発見しました。

まず江戸幕府旗本人名辞典には、

岡野長十郎時英(おかのちょうじゅうろうときふさ)
禄高:六百五十石
役宅:渋谷笄橋
役職:西の丸御書院番四番組
知行地:
武蔵比企郡・葛飾郡
下総葛飾郡・千葉郡
伊豆加茂郡
家紋:酸漿(かたばみ)莫紋同断 
替紋:三鱗(みつうろこ)
菩提寺:高田亮朝院
日蓮宗亮朝院
(新宿区西早稲田3-16-24)

そして旗本百科辞典には
安政年間として岡野虎之助六百五十石
屋敷渋谷笄橋七百三十五坪余り
小普請仙石支配

と記されています。

また、江戸幕府人名辞典には、嘉永文久年間として岡野作兵衛房充(おかのさくべえぼういつ)
宿所渋谷笄橋上御掃除町

とあり、これらの岡野氏が関係者であることは間違いなさそうです。

今回は奇しくも耳袋の中に取り上げられた方のご先祖と思われる屋敷を見つけることが出来ましたが、いくつかの問題も残されています。
それは耳袋文中末尾注釈にこの岡野家が笄町岡野家か溜池岡野家かは判断できない。と記されています。

しかし今回は溜池岡野家の所在も屋敷も見つけることが出来ませんでした。
ただ、末裔を称される岡野さんが笄橋に住んでいたと仰っているのですから、そちらの方を尊重させて頂きたいと思っています。

このお話をお伝えするのに実名の使用を快く了承して頂いたFB友の岡野さんに感謝致させて頂きます。

◆蛇足-その1
この話を掲載した「耳袋」の著者、根岸鎮衛は六本木一丁目長垂坂途中にある善学寺に埋葬されましたが、現在墓石は残されているものの、鎮衛の遺骨は神奈川県横須賀市に改葬されたとご住職からお聞きしました。

蛇足-その2
この話の内容となる事が起こった時期を「文化寛政の頃」
としていますが、年代順に並べ替えると、

寛政

享和

文化

となりさらに文化の後は「文政」となり、元禄期以来の町人文化の爛熟期となる「化政(文化・文政を略して)文化」と呼ばれる時期がやってきます。
そしてこの文政年間になると、岡野某のような行為が江戸中の寺で横行し「墓磨き魔」と呼ばれる珍現象がおこります。

◎Blog DEEP AZABU-奇妙な癖ある人の事
 http://deepazabu.blogspot.jp/2012/11/blog-post_9.html

◎Blog DEEP AZABU-墓石磨き魔の横行
 http://deepazabu.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3692.html

◎Blog DEEP AZABU-耳袋の中の麻布
 http://deepazabu.blogspot.jp/search…

◎wikipedia-根岸鎮衛
 https://ja.wikipedia.org/…/%E6%A0%B9%E5%B2%B8%E9%8E%AE%E8%A…









麻布笄町 旗本 岡野虎之助屋敷




★追記の追記


この件についてもFB友の岡野さんからコメントを頂いており、さらに、真田丸で北条家家臣として出演していた「板部岡 江雪斎」もご先祖と伺いました。

お教え頂いたご先祖の「板部岡 江雪斎」、本名は「岡野嗣成」だそうで岡部姓なのですね。もちろんこの岡野虎之助の祖先にもあたります。

そういえばテレビ番組「相棒」でよく特命に珈琲を飲みに来る組策五課角田長役の山西惇さんがやってた北条家重臣の板部岡 江雪斎の役ですよね。

これで年末の真田丸総集編をより一層楽しめそうです()/












NHK大河ドラマ「真田丸」の板部岡 江雪斎(役:山西惇)