2013年5月2日木曜日

麻布七不思議-我善坊(がぜんぼう)

現在の我善坊町
昔この辺り(現在の麻布台1丁目近辺)に古寺があり、そのお寺のお坊さんの名が我善坊といったそうです。そのお坊さんは顔がとても恐かったのですが気が優しくて、近所の子供たちに慕われていたそうです。ちょうど良寛さんのようであったので有名になり、七不思議の一つの数えられるようになったということです。

麻布区史では、御府内備考、江戸砂子、寛永記、改選江戸誌などをあげて秀忠婦人崇源院(お江与の方)の火葬の際の龕前堂(がぜんどう-荼毘所)があったからという説が主流だと一応紹介しつつも、六本木深廣寺に灰塚があることから我善坊谷とはあまりにも遠く、また江寛永初期の書物「紫の一本」では崇源院に全く触れられていないため、座禅する僧すなわち「座禅坊」が語源とする説を取り上げています。また第五編第2章町史では我善坊町の項で、
一に我善坊谷と呼ぶ南北高阜に挟まれた低地である。地名の起源に就いては、或いは座禅坊谷となし、或いは龕前堂谷とする。多く後説に従って崇源院殿御火葬の折、霊龕安置の仮堂を置くに始まるとしてゐるが、其の誤なることについては~
と、崇源院荼毘所説を完全に否定しています。

江戸期の我善坊谷
しかし港区史では、御府内備考、江戸砂子、寛永記、改選江戸誌など多くの書籍が秀忠婦人崇源院荼毘所(龕前堂-がぜんどう)説を取り上げていることから、
火葬の場所は六本木であったとしても、増上寺からの途中に種々の設備をおいたようであるから(東武実録)、全くの無根とすることもできかねる。「港区史-上巻996P」
と、麻布区史では「誤り」と明記された崇源院荼毘所説を、再び肯定していますので語源は謎に包まれています。






★我善坊谷・麻布我善坊町



○文政町方書上

・幕府御先手組屋敷地にある谷




○東京35区地名辞典

・西久保西部の高台と飯倉町六丁目の高台に挟まれた谷地で、「我善坊谷」の俗称があった場所。寛永三(1626)年、二代将軍秀忠夫人崇源院の葬儀が増上寺で行われた際、この土地に荼毘所が設けられ、棺を置く龕前堂という仮家を建てたことから「龕前堂谷」の名が起こり、その転化したものが「我善坊谷」であるという。しかし、崇源院の火葬は六本木北西部あたりだったともいわれ、その地の深光寺や光専寺、教善寺、正信寺といった寺院は、いづれも崇源院の三回忌の法要をつとめた上、その火葬の地とされた場所を拝領して移転してきた。火葬地が六本木とすると、龕前堂を建てたというこの地との距離が離れてしまうため、龕前堂説にも疑問が残る。また、この谷で座禅をする出家僧がいたことから「座禅坊谷」の名が起こったとする説もあるが、こちらも定かではない。明治5(1872)年から麻布我善坊町が起立。「麻布」の冠称は明治44(1911)年まで。(我善坊町は、港区成立時の昭和22年、旧区名の冠称により再び麻布我善坊町と改称。同49年、新住居表示により成立した麻布台1丁目の一部となる)



三念坂

★我善坊町の坂


◎三念(年)坂
いつのころよりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。

京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。
 

◎稲荷坂(別名:我善坊谷坂)

稲荷坂(我善坊谷坂)

港区麻布台1丁目1番と2番(坂上は虎ノ門5丁目7番)の間の坂。坂上は六本木一丁目。明治初期には坂上に静寛院宮(和宮)邸があった。

◎落合坂

我善坊谷へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。



◎行合坂
港区麻布台1丁目(都道415号線沿い)。双方から行合う道の坂であるため、行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかではない。



落合坂




















老舗万(萬)屋
★我善坊の猫又

江戸の頃、麻布の我善坊に万屋という質屋があり主人の娘おたまと番頭の長次郎は、相愛の仲でした。と言っても恋文をやりとりするだけの清い恋愛であったそうです。しかし、ある夜おたまの寝所に長次郎が忍んで行き、割ない仲となります。幸せが続いた2ヶ月目のある夜、いつものように寝所に忍び込んでおたまを引き寄せたとき、突然何かが長次郎に飛びつきました。 
驚いたおたまの悲鳴で両親と家人が駆けつけると、おたまの寝所でその家の猫と大ねずみが格闘していました。やがて大ねずみが猫の喉をかみ切り勝負が付きます。そしてその猫の死骸をみると長次郎の着物をきていました。古くから家に住み着いていた猫が恩をわすれ化け猫となって長次郎に成りすましていたものを、やはり古くから住み着いていた大ねずみが忘恩に憤慨して挑みかかったのでした。 
その後おたまは、猫と同じ声で泣く赤ん坊を産み落とし、江戸の評判になったそうです。ちなみに猫又とは怪猫、化け猫の事で、猫が年をとると尾が二股になり怪をなす事から来ているそうです。「安斎随筆」「本朝食鑑」などによると老猫の雄が怪をなして人を食うのが猫又で、純黄の毛の猫と純黒の猫がもっとも妖をなすとあります。

この話は我善坊の大鼠ともいわれ、麻布七不思議の一つとして数えられることもあるそうです。また、島崎藤村は大東京繁昌記-飯倉付近で、話の舞台となった老舗の万屋(深山)について、
~この界隈には安政の大地震にすらびくともしなかったというような、江戸時代からの古い商家の建物もある。紙屋兼葉茶屋としての万屋(深山)、同じ屋号の糸屋、畳表屋~(P10~11)
と記しています。また文政江戸町方書上では万屋について、
延宝の頃より当町家持ちにて罷りあり、両替太物商い致し候ところ~同人妻は伊兵衛の姉にこれあり、万屋一統と唱え、いづれも深山氏に御座候。
として深山一族を記しています。そして、文政江戸町方書上は元禄期の深山伊兵衛は赤穂浪士の堀部安兵衛と親交があり、討ち入り直前に安兵衛からの手紙を受け取っていると記しており、その内容を掲載しています。
亡主内匠頭志を達し継べきため
同氏弥兵衛我等この
たび亡命致し候、母・妻ならびに
文五郎儀、貴様相替らず
御懇意、別て頼み入り存じ候、
御内儀様・仁兵衛殿へも、
右の段、よくよく仰せ伝えられ
御心得下さるべく候、頼み存じ候 巳上

一二月十四日 堀部安兵衛

深山伊兵衛様
とあります。

また、三遊亭円生の艶笑小噺「かわらけ町」では太田蜀山人と共にこの店が舞台として描かれています。また、妖怪文芸という書籍には講談「麻布狸穴の婚礼」として狸穴の狸が井伊直政の家老庵原助左衛門に討ち取られ、たった一匹残った子狸が猫の乳で育てられ、やがて人に害をなす。この狸が退治されると、その仇を育ての猫が....~云々、とその後にこの猫又・大鼠との因縁をほのめかしています。










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