2013年4月12日金曜日

広尾稲荷神社

◇名称:廣尾稲荷神社
廣尾稲荷神社

◇通称:千蔵寺稲荷・ハギナメ稲荷

◇鎮座地:港区南麻布四丁目五番六十一号

◇祭神:宇迦魂之命(うかのみたまのみこと)
御神体は木造翁の立像。商売繁盛、五穀豊穣、火伏の神として信仰を聚めている。 
◇祭儀:例大祭・九月十五日、中祭・五月五日

◇氏子:
廣尾稲荷神社 社殿
  • 南麻布五丁目、四丁目の一部(旧麻布広尾町) ・南麻布四丁目、白金三丁目、五丁目の一部(旧新広尾町三丁目)
  • 南麻布二丁目、白金一丁目、三田五丁目の一部(旧新広尾町二丁目)
  • 南麻布一丁目、二丁目、麻布十番馬場四丁目の一部(旧新広尾町一丁目)


徳川2代将軍徳川秀忠が、鹿長年間に鷹狩りのさいに勧請した稲荷といわれています。当時、麻布宮村町にあった法隆山千蔵寺が別当であったため千蔵寺稲荷とも呼ばれていて、現在も鳥居には「法隆山佑道代」の銘が入っています。

鎮守の稲荷(広尾稲荷)は御花畑御殿(麻布御殿)の御用地として召し上げられました。しかし元禄11年(1698年)3月28日この御殿が落成した日から、毎夜どこからともなく多くの小石が飛んできたり、神楽を奏する音が聞こえたりして番人たちが不思議に思い土地の元の主、 三枝摂津守の家中の者に尋ねたところ、

「この地に古くからある稲荷を屋敷内に移したら変わった事が多くあったので、元の場所に返したら収まった。」  


との事だったので早速御殿の鎮守として勧請し信仰されたといわれます。昔は富士見
稲荷、千蔵稲荷と呼ばれていましたが、 明治初期に広尾稲荷神社と改め、明治42年2月22日広尾神社の社号を許されました。旧社殿は青山の大火で焼失してしまいましたが、弘化4年(1847年)神明造りの拝殿と土蔵造の社殿が再建されます。その後大正12年の関東大震災で破損し再築され現在に至っています。祭神は倉稲魂之命で五穀豊穣、火伏の神として信仰されています。拝殿の天井には日本洋画界の先駆者

この神社の石塀の一部に小堂が建てられ額に出世庚申と記してあり、内には他に三基の庚申塔が祭られています。庚申信仰は日本固有の日待信仰に中国伝来の道教思想、十二支の猿などが結びつき天台密教の青面金剛が本尊とされ、水盤に刻まれる「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿は、庶民の身を守る戒めでもあったといわれています。




◇広尾橋欄干

広尾橋欄干
10年ほど前まで広尾神社境内に保存されていた、笄川にかかっていた広尾橋の欄干。右手の木製と左手の石製のものがあるが、石製の欄干の方が年代が古いとのこと。 関東大震災の復興事業で笄川が暗渠化されたのちに、広尾神社で保存された。また明治期には広尾橋の欄干に几号水準点が掘られていたという記録が残され ているが、広尾神社が所有した欄干に掘られていたのかは不明です。 現在この欄干は渋谷区郷土資料館に保存されているとのこと。



◇御由緒書き

慶長年間(1596~1615年)徳川二代将軍秀忠公鷹狩りのみぎり此の地に稲荷を勧請したと伝えられる。 麻布宮村の千蔵寺が別当であった為千蔵寺稲荷とも呼ばれた。明治四十二(1909)年二月二十二日廣尾稲荷神社の現社号となった。 此の頃の麻布広尾辺は萩の名所として賑わった。当社の俗称「ハギナメ稲荷」は可憐な萩が地をナメる様に咲き乱れていたことによる。 社殿は神明造りで、拝殿は弘化四(1847)年再建当時の建物であり、本殿と幣殿は関東大震災の後大正十四(1925)年に建てられたものである。 時代の変遷と度重なる火災に見舞われながらも氏子百姓等の信仰により再建を重ねて現在に至ったのである。
境内にあった二の鳥居(平成元年三月撤去)の左柱に「奉献明和元歳年九月吉祥日」右柱に「再建弘化四歳丁未九月吉祥日法隆山祐道代」 と刻銘があった。これに依ると明和元(1764)年にかなり大がかりな造営が行われ鳥居も献納されたことを示している。其の後弘化二(1845)年 十一月二十四日昼すぎ青山権田原の武家地あたりから出火して青山から麻布へと焼け拡がった所謂青山火事によって焼失し弘化四(1847)年 再建された。古老の話によるとこの時再建された社殿は土蔵造りの本殿に現在の拝殿が付加されたものであったという。本殿を土蔵造りにしたのは 被災の反省からで防災上の配慮であったが、大正十二(1923)年九月一日の関東大震災によって土蔵造りは著しく破損した。本殿は大正十四(1925)年に 再建され木造に改められた。
この時のご造営で神明造り正面一間側面九尺の本殿と、正面三間側面二間の幣殿に、弘化四年再建の木造正面三間側面二間入母屋造り平入向拝一間付の 拝殿が一体化した現在の廣尾稲荷神社の社殿が建造されたのである。
幸にも戦火をまぬがれたので昔日のままである。
昭和十五(1940)年紀元二千六百年を記念事業として境内整備が行われ、氏子崇敬者の寄進により、大鳥居、社名碑、常夜燈、手水舎等建立され 参道も整備された。此の時三基の庚申塔を社殿裏側道路に面した現在の場所に移した。
戦後神社界は未曾有の変革を余儀なくされ、宗教法人として神社の存続を容認された。当神社の宗教法人法による設立は昭和二十八年八月二十六日である。 昭和五十七年社務所改築の第一期工事が行われた。昭和六十一年九月、各町氏子崇敬者の銅板寄進により社殿の屋根葺替工事が完成した。
平成二年十一月十二日、今上陛下御即位の礼当日、過激派のゲリラ活動による時限発火装置放火火災で、幣殿及び拝殿の床下約五坪を焼失したが全焼を免れた (旧富士見町加藤氏が初期発見通報消火に尽力された)
此の時の全国神社による「被災神社復興支援募金」が行われ、金七百万円を復興支援として神社本庁より交付された。平成三年十二月七日当時の東京都神社庁 長猿渡盛文氏により伝達があった。
平成四年九月第二期工事として神楽殿及び参集所を含む建物が完成した。

港歳時記や港区史の記事に麻布御花畠の富士見御殿鎮守富士見稲荷が廣尾稲荷神社であるようにいわれているが之は別のものである。
富士見稲荷については麻布区史第三編有史以後の麻布第三章徳川時代の麻布、富士見稲荷の行に「....斯くて効験顕著なる富士見稲荷は正徳三年 薬園廃止後も尚存続して此の地を分賜せる旗本の崇敬を聚めたが維新後全く廃絶に帰した」と記されている。因に経緯は不明であるが富士見稲荷の 御神像は当神社に安置されている。現在ドイツ連邦大使館敷地内に富士見稲荷の旧跡があり祠が残っている。
昭和五十年頃当時電気通信共済調査役窪田孝司氏が「ドイツ大使館敷地とその付近」の調査をドイツ大使から依頼され、江戸地理研究の泰斗磯部鎮雄氏、 当時港区資料室主査俵之昭氏等と共同作業により行われた。ドイツ大使館敷地内に富士見稲荷の旧跡があり第一次世界大戦後まで此の土地を所有していた 政友会の実力者小泉策太郎氏が祭祀も行っていたことが明らかになった。広尾稲荷と富士見稲荷に関する一世紀に及ぶ誤説が外国大使の望んだ調査によって 明らかにされたのである。




◇御神木
境内に銀杏の古木があり約四百年を経た御神木である。これは青山火事により樹木の中身を焼かれ外皮のみでなお緑の枝葉を繁らせている。 昭和五十一年六月十八日港区保護樹に指定されました。




◇拝殿天井の墨竜画(平成12年10月20日港区指定文化財に決定)

高橋由一の墨龍画 

高橋由一の墨龍画 

拝殿の七枚つなぎの天井板に竜が画かれ「藍川藤原考経拝画」の銘があります。日本洋画家の先駆者高橋由一画伯の日本画最後の大作として 貴重なものです。

高橋由一は鮭とおいらんの画で有名です。下野国佐野藩主堀田摂津守正衛の家臣高橋源五郎の嫡孫として生まれ幼名を猪之助、後に由一と改めました。九才の時 堀田公の近習として仕え画を狩野洞庭、狩野操玉斉に学んだ後「洋製石版画」と出逢い、西洋画の表現に魅せられ洋画家に転身しました。由一の仕えていた堀田摂津守 の下屋敷が当稲荷社と隣接していた為、弘化四(1847)年社殿の再建に際して
二十才前後の青年画家由一が社殿の 天井板に闊達な筆致で竜の墨画を描いたものです。

墨竜画 解説板
由一は明治二十七(1894)年七月六日台東区金杉の寓居に示寂六十六才 法名実際院真翁由一居士 渋谷区祥雲寺内香林院に葬られました。墓石は小型矩形の自然石で「喝」 の一字が彫り刻まれています。同墓所には祖父母と母、妻の墓もあるそうです。



◇広尾の庚申塔

社殿裏側道路に面して三基の庚申塔がまつられている。全面に手水鉢が付されてある。昭和五十五年十一月十五日港区有形文化財 に指定されました。
広尾の庚申塔
「戍子書上」の境内図では社殿と並び西向に境内に建てられています。庚申塔は三基とも正面に青面金剛、日月、三猿が刻まれ左側面に 庚申供養 一結衆志 現当二世 為安楽也 右側面に汝等所行 是菩薩道 漸漸修学 悉富成佛 と刻まれ、中央の塔は元禄三(1690)年 庚午天十月三日 下の部分に 同行十七人 とあり氏名が刻まれています。左の塔は元禄九(1696)年丙子十一月七日とあり、右は損傷が著しく 年号不明であるが現当二世とはっきり刻まれているので、他二基と同じく法隆山 千蔵寺二世の代のもの。手水鉢は全面に三猿、左右側面に 卍、右側に庚申供養、一結衆志、現当二世 左側に元禄八乙亥十一月二日と刻まれています。庚申は中国の道教から起り仏教の青面金剛、帝釈天などの信仰 と混合したもの神道では猿田彦神を祭り、平安時代に伝わり江戸時代に盛んになったそうです。







広尾の庚申塔
庚申塔解説板











より大きな地図で 麻布の寺社 を表示