2013年4月26日金曜日

麻布七不思議-がま池

現在のがま池付近
元麻布二丁目にある天然湧水の池。蟇池・蝦蟇池とも書く。江戸期は備中成羽を所領とする交代与力(旗本)山崎主税助治正の屋敷であった。

宮村町の奥(町域としては本村町)にあった200坪ほどの池。マンション建設の話が出た1970年代後半、外国人などが中心となって反対していたのを覚えている。私も小さい頃よく釣りをしたり、池の端の木でクワガタを捕まえたりした。特にクワガタを捕まえるのは明け方が多かったので、薄暗い池の端に行くのは、とても恐かった。現在はマンションになってしまったが、裏に池が残っている。この池に残された伝説の中の幾つかを紹介。
江戸時代後期(文政年間)、このあたりに山崎主税助という五千石の旗本の屋敷があり、この池の主の大がまが、よく座敷の菓子をたべにきていた。文政4年古川橋から出火した火がこのあたりまで延焼してきた時、この大がまが水を吹き付けて屋敷を守り、菓子の礼をしたそうな。




江戸期の旗本山崎主税助屋敷

池の主の大きな蝦蟇が夜中に、見廻りをしていた仲間(ちゅうげん)を池に引きずり込んで殺してしまった。主人の主税助はお気に入りの仲間を殺された事に大いに腹を立て、池の水を掻い出して蝦蟇を退治しようとした。しかし主税助がその晩寝床につくと、枕元に仙人のような老人が現れ「我は永年池に住む蝦蟇であるが、あの仲間は蛙が生まれる度に殺してしまうので仕方なく子の仇をとったのである。だからどうか池の水を掻い出すのは止めて頂きたい。もし願いを聞いてくれるならば以後このような事は二度としない。そして、当家に火難が降りかかった時は、我の神通力をもって必ず屋敷を守るであろう。」と告げた。
主税助は夢から覚めると今の夢を半信半疑ながら、蝦蟇退治を中止することに決めた。しばらくたった弘化二年の大火の折にこの辺り一帯も猛火に包まれた。そしてこの屋敷にも火が廻ろうとした時、池から大きな蝦蟇が現れて池の水を巻き上げ屋敷一面に吹き付けた。これによって付近は総て焼失したにもかかわらず、山崎家の屋敷だけは難をのがれた。
この噂が世間に広まり、主税助は「上」と書かれた防火のお札(後には火傷のお札)を側用人であった清水家に作らせ「上(じょう)の字様」と呼ぶと、国中から注文が殺到したと言われる。これは当時の大名などがアルバイトとしての収入を得ようとしたもので、芝の金毘羅宮、赤羽橋の水天宮と同様である。
屋敷は明治になると渡辺国武(大蔵大臣)の所有になったが、お札の販売権?は清水家が継続して任された。清水家は維新後に東町に住む事になったために、本来お札は、がま池の水を八月の決まった日に汲みそれを種に「上」の字を書くのだが、その池が他家の所有となって使用出来なくなってしまった為に、家の近所の井戸水を使用したと言われる。また清水家の御子息は帝大を卒業し銀行の幹部となったが、早世した。この帝大時代の学資は「上の字様」からの収益だったと書かれた本もある。その後昭和になると、末広神社(現麻布十番稲荷)が授与するようになり、現在も続いている。

別説-2

明治初期のがま池
享保の頃この池の辺に人の良い裕福な百姓が住んでいた。ある日、池に面した座敷でうたた寝をしていると、1匹の蛙が現れて、近いうちに江戸に大火があるが、私がいるからこの辺は大丈夫だ。火事でやけどをした人たちには焼灰をこの水で練ってつければ必ず治る。という夢を見た。不思議に思っていると、二日ほどして赤坂から発した火事は北風に煽られて大火となり、このあたりも火の海になった。すると池から濛々と水蒸気が立ち昇り池の周囲は、一軒も燃えなかったので、人々はがま池の徳を感謝した。先日の夢を思い出した主人は、焼け跡の灰を池の水を清めて練りやけどをした人たちに無料で施した。するとたちまち全快したので江戸中の評判となり遠方からも求めにくるようになったと言われる
別説-3

ある夏の夕暮れ、山崎主税助の屋敷に来客があって、池に面した縁側で茶を飲みながら話をしていると、置いてある菓子が夕闇の中を池の方に飛んでゆく。不思議に思って菓子が飛んでゆく方を見ると池の中に大きな蝦蟇がいて、菓子を吸っていた。主人の主税助はひどく立腹して明日は池を替え、乾かしてしまうと告げた。するとその晩主税助の枕もとに蝦蟇がやってきて「助けてくれれば、火事の折にはきっと恩返しをするから」と許しを請うた。しかし主税助は、もっと世間の為になる事をするならば助けようと言うと蝦蟇は主税助に火傷のまじないを教え、それが上の字信仰となった。

上の字(じょうのじ)」信仰


○東京案内

往時蝦蟇の奇譚ありとて、同藩士清水氏より火傷の守札を出し、其名世に知られたり
東京名所図会のがま池
○港区史跡散歩

~この事件にちなんで山崎家では、防火のお守りとお札を出したところ、人気に投じ、受ける者が続出した。これを「上の字様」と呼んだのは、その上部にただ「上」の一字が記してあっただけであるからという。明治維新後、山崎家が移転したのちは、同家の家来筋に当る付近の清水家から領布した。同家の子息はこのお札の売り上げによって帝大の学費が出たといっている。~
○幕末明治 女百話

~山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町(ひがしまち)の、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った(ひと) ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入(みいり)で、学費がつづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。 モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。 清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。『ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄い水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだ』とよく話してでした。 後に鉄ちゃんは大学を卒業して、第百銀行へ入り、大層出世をなさいました。支配人となって夭死をされましたが、蟇池の由来と、上の字さまのお札は、古い方はご存じでしょう。近頃上の字さまのお札を、麻布日ヶ窪の末広神社から出していると聞きました。~

昭和期のがま池
○江戸の化物 岡本綺堂

~麻布の蝦蟇(がま)池(港区元麻布二丁目一〇番)、この池は山崎主税之助(ちからのすけ)という旗本の屋敷の中にありましたが、ある夏の夕暮でした。ここへ来客があって、池に向かった縁側のところで、茶を飲みながら話をしていましたが、そこへ置いてある菓子器の菓子が、夕闇の中をふいふいと池の方へ飛んでゆきます。二人は不思議に思って、菓子の飛んでゆく方へ眼をつけますと、池の中に大きな蝦蟇がいて、その蝦蟇が菓子を吸っているのでした。主人主税之助はひどく立腹して「翌日は池を替え、乾かしてしまう」と言いました。 するとその夜、主税之助が寝ているところへ池の蝦蟇がやって来まして、「どうか助けてくれ」と頼みました。そうして、「もし火事などのある場合には、水を吹いて火事を防ぐから」というようなことをいいました。 しかし、主税之助は、「ただ火事の時に水を吹いて火を消すというだけではいけない。それは俺(おれ)の一家の利益に過ぎない。なにか広い世間のためになることをするというならば許してやろう」といいますと、蝦蟇は、「では、火傷(やけど)の呪(まじない)を教えましょう」といって、火傷の呪を教えてくれたそうで、その伝授に基いて、山崎家から「上の字」のお守を出していました。それが不思議に利くそうです。 お守りは熨斗形(のしがた)の小さいもので、表面(おもて)に「上」という字を書いてその下に印を押してあります。その印のところで火傷を撫(な)でるのですが、なんでも印のところに秘方の薬がつけてあるということです。~
○十番稲荷神社由緒書

江戸時代、文政四(1821)年七月二日、麻布古川辺より起こった火の手が備中成羽領主山崎主税助の屋敷にまで迫った時、邸内の池から大ガマが忽然と現れて水を吹きかけ、それを退けたという。 以来、大ガマの御利益にあやかろうと大勢の人々が山崎家にお札を求めた。 そこで山崎家では「上」の一字が書かれた御札を万人に授ける様になった。この御札は「上の字様」と称され防火・火傷や毒虫除の御守として、篤い信仰を集めた。 その後、「上の字様」は当社前身である末廣神社に伝えられ、戦前まで絶えることなく授与されていた。 戦後、「上の字様」は途絶えてしまったが昭和50年に至り大ガマに因んだ「かえるの御守」として復活した。この御守は火事・火傷除としてだけでなく「かえる」の語音から転じて、旅行や病院から無事帰る、遺失物が返る、若返る等の御守として尊ばれている。 元の御札「上の字様」は六十年以上の時を経て猶、御札を求める声が当社に寄せられ続けており、当社ではそれに応えるべく、神社に残された記録や故事を訪ね続け、平成二十年に至り漸く元の御札を復元することが出来た。 再度領布するに際し「上の字様」には新たに「家の諸災難除」の御神札としての御利益も有るように十番稲荷の大神様の御神威を仰ぎ、祈祷を捧げた。





○昭和期がま池の遊び

昭和34(1959)年のがま池 (写された港区-麻布地区編)
昭和34(1959)年のがま池(写された港区-麻布地区編)
昭和40年代前半のがま池図
昭和40年代前半のがま池図


がま池は当時から公園ではなく私有地であったため、危険を考えて所有者は一般の立ち入りを禁止していた。そして池の周囲は植栽と鉄条網で守られていた。西側に池の正式な入り口があったがその前には管理人の住居があり、見つかると厳しく怒られた。しかし、周囲の鉄条網は何者かの手によりいつもどこかが破られており、子供達の池への入り口となっていた。ごくたまにすべての鉄条網が補修されている場合は、当時既に使用されなくなっていた南側斜面にある階段を民家のガレージを無断通過して使用し、池に侵入した。しかしうまく池に侵入できても運が悪いとすぐさま管理人の目にとまり、追い出された。しかし、何度追い出されても再び舞い戻っては新たな入り口を探し当て、侵入を繰り返した。

昭和40年代前半のがま池での遊びは何と言ってもザリガニ釣りである。当時私たちはザリガニの成体を「マッカチ」「マッカチン」などと呼び、たこ糸にスルメイカを結びつけた単純な釣り道具で釣り上げた。またハサミが赤くなる前の幼体を「アオタン」と呼んでいたが、アオタンは釣果としての価値が格段に低かった。そして、少し高学年になると竹の一本竿でクチボソ釣りや当時「タフ」と呼んでいた和メダカなどを釣った。今から思えばメダカを釣るとは狂気の沙汰であるが、当時は真剣そのもので、十番の釣り道具屋で極細の「タナゴ針」などを購入し、メダカ釣りを楽しんだ。しかし、時には何かの間違いでこのタナゴ針に体長四十センチ以上の鯉や、かなり大きな鮒が掛かることがある。しかし、所詮竹の一本竿にタナゴ針ではなすすべもなく糸を切られるか、場合によっては竿ごと水中に持って行かれてしまった。

また、釣りで使用するたこ糸、スルメイカなどの購入は当時近隣の駄菓子屋で調達した。駄菓子屋は記憶にあるだけでも、宮村公園そば・本光寺脇・麻布保育園(狸坂下)脇・暗闇坂下・本村町本村公園前・有栖川公園そばなど数多く点在し、調達に困ることはなかった。

釣りの他にも夏場はクワガタ捕りの聖地として密かに語り伝えられた場所でもあった。「密かに」とは当時のクワガタ生息木は先輩から後輩へ一子相伝で伝わったためで、宮村町周辺には麻布山、賢崇寺、本光寺などと並んでがま池にはクワガタが生息する木が多くあった。しかし捕獲には早朝が適しているので、他の子供を出し抜くために夏休みには「ラジオ体操」前の時間帯でなければならない。それにより必然的に早起きをすることとなった(シーズン中だけだが...)。しかしその捕獲時間帯も次第にエスカレートしてゆき、夜が明けきらない御前4時前後となってしまった。そして、クワガタの生息木は墓地やがま池などとても淋しい場所に多かったので、薄暗い墓地やがま池に入り込んで捕獲作業に専念したが、幼児心にも恐怖心でいっぱいであった。特にがま池は麻布七不思議を知っているので、夜も明けきらない水面で鯉などが跳ねようものなら、大ガマかカッパ?か!っと、足がすくみ大急ぎで捕獲作業を終え、逃げるように帰宅したことを昨日のことのように覚えている。ちなみに捕獲には網や虫カゴなどは「幼稚っぽい」として頑として使わず、捕獲には木の根元を掘るか、足で蹴って木を揺らした。そして捕獲したクワガタはそのまま半ズボンのポケットに入れて持ち帰るという、何ともマタギちっくな捕獲方法であった。

夏場はその捕獲したクワガタの保有数と大きさがステータスであった。私たちよりさらに年上の先輩にはカブトムシを捕獲した者も多数いたが、乱獲がたたってか私たちの時代には既に絶滅していたと思われ麻布での捕獲経験は無い。ある夏、例年よりクワガタが不漁で捕獲数が他の子供より少なかった時に一度だけ嘘をついたことがある。当時出来て間もない(1964年開業とのこと)青山ピーコックまでチャリンコを飛ばして、特売の特大クワガタを購入し、友人に見せびらかした。友人はその大きさに驚いたが、自身の虚しかった気持ちは今でも忘れられない。

そしてさらに高学年になるとチャリンコという移動手段を手に入れた私たちはその行動範囲を大きく拡大し、釣りの種類により場所を設定することになる。主だった場所は、

・がま池-ザリガニ・クチボソ・タフ
・有栖川公園-ザリガニ・クチボソ・タフ
・六本木、檜町公園-クチボソ・タナゴ
・赤坂、弁慶橋-クチボソ・タナゴ・手長エビ
・東雲-ハゼ釣り
と、広範囲に及びさらに釣り具も竿意外に「四つ手網」「セロビン」と進化し釣果も倍増したため、一時期の我が家は小型の水族館と化した。余談として、当時私たちの行動範囲を大きく拡大したチャリンコだが、実は小学校から放課後のチャリンコ遊びは禁止されていた。当時この理由を「交通事故の危険から」としか認識していなかったが、10年ほど前に話した幼なじみとの会話の中に、当時東町小学校に転校してきた悪童が仙台坂を猛スピードのチャリンコで駆け下りて老婆と接触事故を起こしてしまった。これにより港区内の各小学校が「自転車遊びの禁止」となったという。その事故を起こした悪童の名前は....元プロレスラーの大仁田厚氏であるという。

高学年になると、がま池や空き地などで爆竹・2B弾(正確には2B弾は社会問題となり禁止となったため「クラッカー」であったが)などの花火遊びをした。これらの場所は大人が入りこめないので火遊びをしても叱責されることがないため、池や空き地では頻繁にそれらの破裂音が聞こえていた。高学年になるとザリガニ釣りも飽きてしまい釣ったザリガニに爆竹を握らせて吹き飛ばすという今から思えば恐ろしく残酷な遊びをしていた。またロケット花火を縦に3段に重ねて飛ばす「アポロごっこ」も私達的には流行った。しかしこれは非常に危険な遊びで、各段のロケット花火を垂直に重ねないと上昇せずに水平に飛び、一度お尻から火を噴いたままの3段ロケットが民家の屋根に乗ってしまい大慌てしたことがあった。幸にもこの時は火災などにはならなかったが、この時ばかりは普段恐れていた大ガマが現れて、口から水を吐いて花火の火を吹き消してくれることを本気で願った事をいまだに覚えている。

1999(平成11)年7/25日私が最後に入ったがま池です。 あらかじめ見学希望の意志を示し 、当時のオーナーの血縁の女性(S.Gさん)に開けてもらい中に入りました。 現在の建物ではなく池の中に杭だけが入る形で建てられていた以前の建物は昔のがま池の広さを完全に保っていました。
敷地内に一歩足を踏み入れた瞬間、私は小学生に戻っていました。うっそうとした緑と蝉時雨の大合唱。そして池の奥からは子供たちの歓声が聞こえてきそうです。  マミー、としちゃん、池に落ちた年少のかっちゃん。民なの顔が浮かんできます。 
撮影を済ませると三十分ほどで礼を言って表に出ましたが、これが昭和のがま池を見る最後となりました。             



1999(平成11)年7/25日がま池

※この動画は当時出始めたばかりの「デジタル・ビデオカメラ」で撮影したのですが、まだデジタル機器の著作権問題が解決していない時期だったため、デジタル出力が不可能でした。よって従来どうりのアナログ出力でしかもQVGAでした出力できなかったため、画像がブロックノイズだらけでお見苦しい点は、どうぞお許しくださいm(. .)m








がま池水流
がま池水流


○がま池水流

がま池から流れ出す余水は、昭和期には池北側にあった水門(昭和40年代前半のがま池図参照)から下水道にに落ち込んでいた。この水門は大雨などでザリガニも流れ落ちる「穴場」だったので、私と同年期の少年たちのなかには水門から下水道に入り込んで宮村公園坂上あたりまで探検した猛者もいたという。また昭和40年代前半の宮村公園擁壁は、冬場にいち早く氷が貼る場所だったので冬場の格好の遊びであった。公園脇の住居路地にはいくつかの井戸が掘り抜かれており、いつも水を豊富に湛えていた。この通路は昔は細流であったと思われ、現在も公園脇から狸坂下まで通じている路地は同様にがま池水流の細流であった。そして狸坂下あたりで大隅山方面から流れ出る宮村水流と合流して内田山の麓沿いに現在の更科堀井の西側付近でニッカ池水流や芋洗坂を流れ下る吉野川水流と合流し現在の浪速屋たいやき前あたりまで直進してその後十番大暗渠から一の橋で古川に合流した。このがま池・宮村町水流の昭和初期の様子を「十番わがふるさと」文中で稲垣利吉氏は、
~家の前(安全寺裏手辺か)の四十センチ幅の溝は小川の流れのように清水が四六時中流れていた。この水はがま池の水や周囲の高台から滾々と湧き出る水が流れ込むもので、田舎の小川のように美しい風情があった。今は暗渠になっているが、現在も一ヶ所だけ昔をしのぶ場所が残っている。(奥の三叉道路石屋の前の下水)~ ~現在五、六十才位の人の少年時代までは(がま池は)相当大きくて外からも自由に出入りできたのでこの辺の少年達の遊び場であり、皆釣竿を持って小魚を釣りに行ったものである。が大雨でも降ると大変だ。宮村通りの溝は溢れ、道全体が小川のようになる。子供達は俄か漁師となって古スダレを持ち出し、溝に仕かけてどじょうや小魚をとる。
と記して、がま池に豊富な魚類が生息していたことを伝えている。
○麻布白亜館

1966(昭和41)年から1977(昭和52)年頃までがま池の東側畔(麻布本村町35番地)に存在した伝説の会員制フレンチレストラン。白亜館の名付け親は故保富康午氏。当時絶頂期にあった××軍団のボスを泥酔状態で非会員であったため追い返したことにより業界でも一躍有名となったという。 関連記事:麻布白亜館-その1



二度の保存運動

大正時代頃、麻布周辺の再開発・宅地化がさかんに行われた。これは地方からの労働者がこの時期大量に東京に流入したことと無関係ではないと思われ、好景気による土地取得者の増大、四の橋周辺を含む古川端の小工場などの労働者の住居確保などにより、小規模な住宅やアパートが次々に建てられていった。西町近辺も大手建設会社による分譲・宅地化が行われ、お屋敷が次々と姿を消していった。また宮倉公園脇の住宅や、狸坂下から麻布十番へ続く切り通しの斜面が掘削されたのもほぼ同時期であった。そして開発に伴いそれまで屋敷地内であった通路が公道となって宮村坂・内田坂など多くの坂や道路が貫通し、庶民の利便性が向上したことによりさらに住民が増えていったものと思われる。同時期にがま池周辺の宅地化が始まり、池の周辺が次々に分譲されて住宅となっていった。

その後関東大震災では地盤の堅牢さから大きな被害が少なかった麻布地域は昭和期の太平洋戦争による空襲で大きな被害を出しつつも、被災を免れた建物も多く存在した。そして時代は下って1970年代、麻布各地でも建物の老朽化から木造住宅のビル化が始まる。



●1972(昭和47)年の保存運動

1972年のガマ池保存運動を伝える 毎日新聞記事
1972年のガマ池保存運動を伝える毎日新聞記事
がま池平成11(1999)年7月
がま池平成11(1999)年7月


1972(昭和47)年、当時ハワイ大学教授で渡辺国武の子孫である池の所有者が土地の有効利用からマンション建設を計画した。そしてこの計画にほとんどの周辺住民は池が「民有地」であることから池の存続あきらめてしまった。これに対して池の保存を訴えて保存運動を展開したのは周辺に住む外国人たちであった。この様子を毎日新聞S47・3/4付け朝刊の「問いかける群像14」の「ガマ池が消える  怒った、立った 外人が...」と題した記事は克明に伝えている。

・ドイツ大使館 ゼーマン一等書記官と婦人
・タイムライフ誌 ニックル東京総局長、
・フランクフルター・アルゲマイネ ロス極東特派員、
・海運会社社長夫人 アイアーズ婦人、
・ブランズウィック社 フリント日本代表、
など50人余りの外国人が当時の大石環境庁長官、美濃部東京都知事に池の保全を陳情し、さらに池の歴史を調べ周辺住民へ回覧板による保存運動を展開した。この時の外国人活動家の心情を記事では、
それにしても不思議でならないのは、いま日本では、自然保護が叫ばれ、緑化運動が各地で進められているのに、一方で、こうした現にある美しいオアシスが平気で破壊され、しかも、だれも、それを守ろうとしないことだ。どうしてでしょう。なぜなんでしょう.....

がま池はエピソードの多い、由緒のある池だった。日本人がなぜこのようなエピソードを忘れはて、目の前で大切な自然が破壊されようとしているのに、どうして無関心でいられるのか、不思議に思った(アイアーズ婦人)
と記している。
この問いかけに遅ればせながら周辺住民の山崎幸雄千葉大教授なども保存運動に参加し、また宮村町会長斉藤氏なども運動とは別に3800人におよぶ地域住民の署名を集め港区議会に「ガマ池保存の請願書」を提出した。これら地元日本人の活動に外国人活動家の間でも「池は助かるだろう」と期待をふくらませた。しかし.....

陳情を受けた当時の小田清一港区長(当時)は自身の少年期にガマ池で遊んだ経歴などを披露しつつも、
「私の孫たちはもう知らんでしょうな。だれも教えてやらんから」
っと、まるで他人事のようなコメントを発している。 さらに池の保全についても、
「できれば残しておきたいのだが区には買い上げるだけの財源がない。都や国が買ってくれればねー」
と責任転換。都は池の面積が小さすぎて都立公園向きではない。としつつも首都整備局長談話として、

「区が将来、公園にすると約束するなら先行取得してもいいのだが、区にはその気もないようだ」
と重大な発言を掲載して、港区は当初から池保全の意志が全くなかったことを記事は裏付けている。 そして環境庁も官房参事官の発言として
「所管外でどうしようもない。都で善処してほしいものです」
と、いかにも「お役人」らしいコメントを発している。

これに対して記事は建設主渡辺氏がハワイ在住であるため代理の弁護士談話として
「なにがなんでもマンションを建てようというのではない。都や区が池を買い上げてくれるなら応じるが、買ってくれない以上、地主だって生活がかかっている。池の景観を壊さないよう細心の注意を払って、ガマ池をより美しくするような立派なものを建てる。ガマ池を守ろうとしているのは私たちだ」
とのコメントを掲載している。

その後工事は着工され、現在とほぼ同位置にマンションは建設された。そしてマンションは堅牢な壁面に守られガマ池に忍び込んで釣りなどを楽しむ少年の姿は皆無となり、それによりガマ池は真に伝説の池となってしまった。 しかし、この建物は池には全く手を付けずに建設されており、建物の一部分はフローティング状態で池に張り出していただけで池自体は100%残され、ほぼ完全な状態を保っていた。




●2001(平成13)年の保存運動


旧マンション解体時のがま池
旧マンション解体時のがま池

2001年がま池保存運動
2001年がま池保存運動
池の保全を訴える看板
2001年がま池保存運動
池の保全を訴えるポスター
池の保全を訴えるちらし

前回のマンション建設から30年余りが経過した2000年、池の所有権は森ビル系列の子会社「株式会社サンウッド」のものとなりマンションの立て替えが申請された。これにともない翌2001年池周辺の住民ら750人が池の景観と保全を求めて「旧跡がま池を守る会(以下守る会)」を結成、建築家の団紀彦氏(父は音楽家の団伊玖磨氏)が会長となった。守る会は署名運動・区議会への誓願・陳情など積極的な活動を行い。さらにインターネットで「守る会」サイトを立ち上げ、池の由来、湧水、野生動物の生息状況などを掲載すると共にサイト上からも池保全の電子署名が出来るなどの仕組みを作った。 また「守る会」は港区を仲介としてで業者と周辺住民の協議会を設け解決の糸口を探った。

この協議会は土地所有者・周辺住民・港区・教育委員会の四者によるものであったが当初行政側は「四者協議会」ではなく、「土地売却問題についての説明会」であるという認識から教育委員会が会議に出席せず、周辺住民・港区・土地所有者(株式会社サンウッド)の三者による会議となった。 さらに次の協議会では「守る会」側の要請により土地所有者(株式会社サンウッド)が早くも転売を決めた転売先業者も出席し、協議の場がもたれた。しかし、協議は平行線をたどり区、都、管轄省庁は1972年とほぼ同様の対応を取ったために工事は何事もなく開始され、池の面積(約700㎡)のうち埋め立ては約4分の1の175㎡に及んで「ウィンザーハウス元麻布」が完成した。

○ウィンザーハウス元麻布

・竣工:2002年8月
・用途地域:第一種中高層住居専用地域
・容積率:200%  建蔽率:60%
・鉄筋コンクリート造・地上6階
・戸数:10戸
・駐車場収容台数:7台
・敷地面積:1901.52㎡(575.21坪)
・延床面積:2993.17㎡(905.43坪)
・設計:入江三宅設計事務所
・施工:佐藤工業株式会社
・デベロッパー:株式会社サンウッド

完成後も「守る会」は池の一般公開を求めて活動し、 平成15(2003)年2月28日に区建設委員会に提出された「がま池の公開実施に関する請願書」には港区議16名の紹介が添付されているが、議員は党派を超えて自民・公明・民主クラブ・共産・他など多岐にわたっている。

その後、残念ながら建物はさらに転売され、協議会で転売時には公開規約を継承するとしたにもかかわらず、それが守られた形跡は無い。また「守る会」も署名支援者などへの説明・報告もないまま突然活動を中止し、オフィシャルサイトも閉鎖されたままとなっている。多少なりとも「守る会」を通じてがま池の保存を念じてきた筆者は、会がNPO設立まで画策しながらも結果的には挫折したことから、これら一連の活動目的が真に自然保護・史跡保存運動であったのか、単に周辺住民の私的な景観保護・環境保全による固有資産の保護、保障問題の優位性確保であったのか.....未だに総括が出来ていない。






がま池関連の新聞記事
日 付 新聞名 見出し
1972(昭和47)年 3/4 毎日新聞 「怒った、立った外人が...」
10/7 朝日新聞 マンション着工でピンチ「がま池を残して...」
1991(平成3)年 11/10 読売新聞 「大火防いだ大ガマ伝説」
2001(平成13)年 2/25 東京新聞 「都心の"原風景"がま池も...」
4/24 読売新聞 「がま池協議平行線」
4/27 朝日新聞 「がま池一部埋め立て計画」
5/4 東京新聞 「麻布の水系への影響は」
5/9 読売新聞 「がま池の買い取り要求」
東京新聞 「保全策求め三千人分の署名提出」
5/12 読売新聞 「業者が建築確認申請」
?新聞 「がま池買い上げ課題多い」
6/5 東京新聞 「共有地化など検討」
7/10 東京新聞 「住民がNPO設立準備」
7/14 読売新聞 「予定地買い取り断念」
東京新聞 「港区が買い取りも代替地取得もせず」
8/5 朝日新聞 「業者が工事を再開」
8/11 読売新聞 「環境相 かかわり難しい」



麻布区域の湧水地点一覧



平成14(2002)年3月 港区みどりの実態調査<第6次>報告書  表3.11.2 湧水地の状況
No. 名 称 所在地 湧水量 湧水状況 周辺状況 備 考 DEEP AZABU注
5. K氏邸 麻布狸穴町×× 住宅地及び商業業務地 湧水箇所特定できず *
6. 所在不明 南麻布3-9-6 有栖川公園やフランス大使館の樹林が周囲に見受けられる 湧水箇所特定できず 聚楽園池か
7. 光林寺 南麻布4-11-24 +++ ポンプアップ フランス大使館の樹林が寺のものと一体となり、緑の塊をなしている。北に有栖川公園が位置する 深い井戸で水は生治水として利用している。 *
8. 有栖川公園 南麻布5-7-28 + ポンプアップ 公園自体が質・量的に高い樹木地となる 池の脇に井戸を設け、ポンプで水を池に流す。 *
9. 善福寺 元麻布1-6-21 +++ かなり大量に流れる 周囲に小規模な樹林地が点在する 柳の井戸として文化財に指定されている *
10. 宮村児童遊園 元麻布2-6-22 + 染み出す程度 小規模な樹林地が点在する 公園内の擁壁下部より湧出 *
11. がま池 元麻布2-10 自然湧水 小規模な樹林地が点在する * *
12. 笄小学校 西麻布3-11 井戸校舎内の1ヶ所に湧水を集め
ポンプで汲み上げる
* *
13. 所在不明 六本木6-11 * 湧水箇所特定できず ニッカ池か


湧水量
+++ かなり大量に湧出する
++ 連続して湧出する
+ 滴程度で湧出する
湧出量不明
湧水地特定できず











追記


 伝説の「がま」が山崎邸に現れたのは麻布区史によると文政4年(1821年)4月2日との事であるが、このように日付まではっきりさせているのは、「上(じょう)の字」信仰の効能を強調するにあたり、その過程で詳細な話が出来ていったとの事。ちなみに屋敷の主山崎主税助は、備中成羽を領する大名の分家で明暦3年、家が無嗣断絶となりその後交代寄合として存続する。
屋敷は現在の本光寺と境を接し、西町インタ-ナショナルスク-ル、安藤記念教会を含んだ広大な敷地であり安政年間から明治にいたるまで11396坪を有した。それ以降昭和初期までは池の広さが約500坪ほどもあった。また池は、明治35年の「新選東京名所図会」にも登場し、その幽玄さが記されている。しかし、大正頃から開発が進み一帯が分譲地となり、池周囲も石垣などで囲まれ旧観を失っていった。

マスコミなどで麻布の名所として幾度も取り上げられてきたがま池だが、勘違いされやすいのはこの池は誰でもが入れる公共の施設ではなく、いつの時代にも「立ち入り禁止の私有地」であったことである。私を含めて多くの近隣の少年たちはこの池で遊んだ少年期の体験を有しているが、それは土地所有者の目を盗んで「忍び込んだ」ためで、池の前には土地の管理人の家(現在教育委員会の解説板がある場所))があり厳しく人の出入りを監視していた。そして見つかると厳しく叱責されて追い返された。よって子供の目の前で親が叱責されるという危険を冒してまで侵入する親子連れというのは考えられない。また、大人同士の侵入も不法侵入と見なされ警察に突き出される恐れもあったので、ほとんどみかけなかった。よってがま池で遊んだ経験を有するのは、そのほとんどが少年のみである。また最近NHKの番組内で紹介された池から気泡があがっている画像を見て湧水といって喜んでいる周辺住民もいたが、回水ポンプ機の気泡であることは明らかである。そして、平成14(2002)年の湧水調査(港区みどりの実態調査)によると、池の湧水は不明という曖昧な表記で明言を避けている。また同番組では池の撮影を許可されたようだが、一方でローカルTV制作スタッフが公共番組作成のために撮影を申し込んだ際にはマンション管理会社により拒否されているという現実も忘れてはならない。

地元住民の中でも頻繁にがま池で遊んだ経験を本当に有するのは、周辺で少年期を過ごした者のみかと思われる。後年、数度のがま池保存運動が行われたが、地元住民の中でも池への思いに温度差があるのは、少年期のがま池遊び経験を有しているか否かがあったことは否定できない。また、現在のマンションが建設される前の建物は池はそのままで基礎を打ち池の面積はそのままであったが、現在の建築物は池を埋め立てて地下駐車場まで建設してしまったのでもはやその部分には水脈も存在しない。しかし、今でも早朝などに池横の道路を歩いていると元排水溝(私たちは水門と呼んでいた)があった付近のマンホールからは水流の音が聞こえている。「生活排水の音」との区別は難しいが、少年期の夏休み、まだ夜も明けきらない静まりかえったがま池にクワガタ捕獲で忍び込んだときにいつも聞いていた水門に流れ込む音と酷似している。わずかな望みではあるが、池の南側といわれる湧水噴出地点は細々と生きているのかもしれない.....と思いたい。

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