2013年4月5日金曜日

高輪の大仏(おおぼとけ) -その2 隠れ切支丹の寺


五智如来
 
 如来寺の大仏が江戸期高輪にあり「高輪の大仏」と呼ばれていたことをお伝えしましたが、その中でこの寺の創健者の又七(後に但昌)が元隠れキリシタンであり、品川海岸での磔刑から奇跡的に生還し、改宗して如来寺を創立したとお伝えしました。

しかし、磔刑は以前「元和キリシタン遺跡(芝・札の辻)」でお伝えした原主水をはじめとする切支丹の処刑と同じものを指す可能性があることがわかりました。
この高輪の大仏・如来寺のあった場所こそ元和年間に原主水などキリシタンらが札の
江戸期の高輪如来寺敷地図
辻で処刑された後の埋葬地であったとの説があります。江戸期の書籍「望海毎談」によると、

芝五智如来
  • 如来寺、芝高縄手通り、五智の如来堂にして、世に芝の大仏と云ふ、此の仏建立せしは、天台宗にて、但昌といへる木食なり、依って、本堂迄取立て、東叡山の末寺なり、当所、江戸創業の始めは、刑罪の屠所なりしが、其後、鈴ヶ森の地へ引たり、但昌、其後、相州一石山に籠り、薬師如来を建立し、其所にて遷化す~
などとあり、この如来寺があった場所が処刑後の埋葬地であったとしています。そして以前掲載許可を頂いたカトリック東京大司教区東京教区ニュース『原主水の生涯』 著者:高木一雄 (キリスト教史研究家)には、原主水らが処刑された後の遺体の処理を、
後に宗門改役所で作成された 『宗門穿鑿式(しゅうもんせんさくしき)』 によるとキリシタンの刑死者は屍体が盗まれないように埋葬されていたらしい。 当然ながら札の辻での処刑者の後始末は品川宿小屋頭長九郎配下の者たちが行なっていた。 

一説によると埋葬した場所は近くの高輪車町(たかなわくるまちょう)の小山ではなかったろうか。 著者不明とされる 『望海毎談(ぼうかいまいだん)』 によると寛永13年 (1636) 刑場とされる跡地には如来寺が創建されている。 明治30年 (1897) 荏原郡大井村へ移ったが、 大正12年 (1923) 9月の関東大震災により廃寺となったらしい。 今も隣には線香の絶えない高輪泉岳寺がある。
江戸期の品川溜
として品川溜の非人頭長九郎とその配下の非人たちが処刑された死体の処理を行ったと記しています。余談ですがこの品川溜は現在の京浜急行青物横丁駅前(現在の交番付近)にあったようで、江戸期の地図にも記載されています。
また同書はこの処刑を目撃した二人の神父(イエズス会ディオゴ結城了雪神父・伝道士アレイシヨ・イウン )がいたことを記し、その神父たちの江戸での隠れ家が品川溜であったとしています。

そしてこの如来寺自体も隠れ切支丹寺との説もあります。東京風土図によると、
~大井の大仏で有名な養玉院がある。大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、宝生如来、薬師如来の五体の仏像があり、五智如来と呼ばれている。ところがこれぞ、キリストを中心とする四天使の像であるといわれている。天和5年(1685)京都七条河原と呼応して、 品川海岸でキリスト教信者60人余人をはりつけ刑に処したのである。そのうちの一人だけ、一命を拾った男がいた。その名を又兵衛、または又七ともいう。これこそ神の加護と信じ、五智如来にたくして四天使の聖像を彫刻し、芝高輪に帰命山如来寺と名づけて二百年続いていたが、 明治40年に現位置に移されたのである。かなしき隠れキリシタンの物語である。 ~
としています。また他の情報では 品川区に移転した如来寺には現在もたまにクリスチャンの参拝があるといわれています。

しかし、如来寺の創建である但昌こと隠れ切支丹の「又七」が磔刑から生還したという伝説は信じがたく、当時の隠れ切支丹の磔刑の様子を以前ご紹介したカトリック東京大司教区サイトの教区ニュース「原主水の生涯   高木一雄」では、幕臣原主水などが処刑された元和9(1623)年の火刑の様子を、
~そして三日三晩屍(しかばね)が焼け尽きるまで番人が立っていたらしく~
と記しており、生き残ることは不可能と思われます。また同時期に処刑された原主水は見せしめのため手足の指を切り落とされ、足の腱を切断されていたため自力で逃げることは不可能であったようですので「又七」も動揺の措置が執られていても不思議ではありません。
これらから想像すると、但昌こと隠れ切支丹の「又七」はキリスト教の棄教により助命されたのでは?という素朴な疑問が生まれます。そして、実は棄教は仮の姿で如来寺建立後も隠れ切支丹として五体の如来像を密かにキリストと四天使として信仰したという可能性も決して捨てきれません。



江戸期の高輪・札の辻辺



 








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