2013年4月17日水曜日

天祖神社(元神明宮)


元神明宮
本来、天祖神社を擁する小山町は麻布ではなく三田に属しているが、一の橋の真裏で昔ながらの町並みも大好きなので掲載させて頂きます。

寛弘二年(1005年)一絛天皇の勅命のより開かれ、天照大神、水天宮を祭神としました。600年間人々の信仰を集めましたが、徳川幕府による地割りの変更をうけ、 神霊を飯倉神社(芝大神宮)に移しました。しかし、土地の人達の熱意により当地にも留め置き元神明宮と称しました。 隣地の久留米藩有馬公の庇護をうけ、一般より崇拝を受けていた水天宮は、この天祖神社に分霊を残し、明治初年有馬屋敷の移転と共に日本橋の現在地に移ります。天祖神社 にはその他、平川稲荷、天白稲荷、大銀杏稲荷も祭られています。

<2010>

○創建:寛弘2(1005)年

○祭神:天照皇大御神

○相殿:水天宮御分霊

○別名:神明宮 天祖神社 小山神明宮

○所在地:東京都港区三田1-4-74
 ○祭礼:9月15~16日
 ○末社:
  • 平河稲荷神社
元は江戸城内紅葉山に祀られ、徳川家光の御台所が信仰していたという。明治維新に際して元神明宮に祀られることになった。
   ・豊日稲荷神社
   ・和光稲荷神社
    ・天白稲荷神社
氏子内海家が大正11(1922)年に伏見稲荷より迎え守護神としたが昭和44(1969)年に当地に遷座した。
  • 槻根稲荷神社
以前大欅の根元に祀られていたためついた社名。
  • 権太夫稲荷神社
明治42(1909)年6月開通した一の橋→赤羽橋間の市電工事に伴い遷座した。
市電開通工事の際、樹齢400年といわれる銀杏稲荷神社(現在のパークコート麻布十番タワー・北西角)の御神木である二本の銀杏樹 のうち市電開通の際道路拡幅工事のため一本を伐採した。すると伐採した木を乗せたトラックは泥濘にはまり、運転手が大けがを負い伐採に 関わった人々も次々に原因不明の流行病や交通事故で亡くなった。
これを「稲荷の祟り」と恐れた地元住民の代表が京都・伏見稲荷社でお祓いを受けると災いはおさまったといわれる。  

  • 白滝稲荷神社(銀杏稲荷神社)
銀杏稲荷神社(現在のパークコート麻布十番タワー・西側大通り面角)にあった銀杏稲荷社の分霊。 銀杏稲荷鎮座地は江戸期には秋月藩黒田邸、明治期には伊藤博文邸内であったと思われる。
以上いずれも宇迦之御魂神うかのみたまのかみ を祭神とする。  
○由緒 平安時代の寛弘二年(西暦一〇〇五年)一條天皇の勅命により創建。 渡辺綱の産土神でもあり、多くの武人に崇敬を受けた。 江戸に入府した徳川家の命により神宝・御神体が飯倉神明(現在の芝大神宮)に移される際、氏子・崇敬者の熱意により境内に 御神体だけは渡せないと隠し留め、昼夜警護して守ったと伝わる。 以来、元神明宮と称され有馬侯を始め広く一般より今日まで多くの崇敬を受けてきた。  また社は、安産の神、水の神として崇拝されている水天宮が祀られており、 この水天宮は、文政元(1818)年、社に隣接する有馬藩邸内に、邸内社として領地の九州久留米水天宮から分祀され、 明治元年に有馬邸が青山に移転する際、当社にも御分霊を奉斎した。 後に青山の有馬邸内社は日本橋蛎殻町の旧有馬家中屋敷(現在地)に遷座した。  大正の関東大震災や昭和の東京大空襲等、多くの災厄から氏子・崇敬者の人々を守った事から、近年では厄除けの神社として 全国より崇拝されている。  また、境内地には、穀物の神である宇迦之御魂神(稲荷神社)を奉斎。大正14(1925)年に建造された旧御社殿の老朽化に伴い全面的な改築を行い、 平成6(1994)年六月、現在の鉄筋コンクリート造である近代的な御社殿が完成し、平成17(2005)年九月には御鎮座壱千年の記念事業がおこなわれた。
○御府内備考続編[1829(文政12)年発行]の記述
小山神明宮(江戸名所図会)

神明
稲荷社   (社地拝領地二百八十坪余)   三田久保町
神明本社 (間口二間 奥行三間) 拝殿 (間口三間 奥行二間)
祭神雨宝童子(木立像、丈一尺一寸))
右神明宮之儀者、往古飯倉神明之元地之由ニ申伝候故、元神明と唱候故ニ御座候、 
○相殿 不動明王(木造、丈二尺三寸五分)  歓喜天(銅像大一寸六分)
○木鳥居 (高一丈一尺、明キ八尺)  
○祭礼定日 毎年九月十五日  
○氏子町名 三田久保町 当光寺門前町 龍原寺門前町 久保三田町
○末社 金比羅社 (間口四尺五寸 奥行五尺五寸余)
 神体不動 (木像、丈二寸五分 弘法大師作)
○稲荷本社 (間口五尺 奥行六尺)  
  平川稲荷大明神 神躰正観世音(木像、丈一寸八分)
  右平川稲荷と唱候儀者、往古平川御門内ニ鎮座
 之由ニ申伝候間、平川稲荷と唱申、尤右鎮座
 之年代相知不申、候  
○別当不動院 天台宗東叡山末  
  当院開基開山等先年類焼之節記録焼失仕相知不申候、  

江戸期の元神明宮敷地(御府内備考続編)

 



○2010(平成22)年6月の銀杏稲荷遷座

伐採前の銀杏稲荷御神木
権太夫稲荷遷座で伐採された後に残された「もう一本」の銀杏稲荷御神木の銀杏樹は付近の銘木として町を見守ってきました。 この様子を「八広の爺ちゃん」サイト都電一代記-34系統」では、  
~道行く電車がこんなに小さく見える。それほど大きい銀杏が麻布中ノ橋から一ノ橋に行く道端にある。都内には芝や麻布、本郷、小石川、牛込 などに大銀杏が何本かあるが、いずれも公園や学校やお邸の中にあって、ここのように電車道にあるのは稀である。樹齢は400年近いと、 いわれ根元に銀杏稲荷大明神をお祭してある。小さな祠(ほこら)があって、油揚げがいつも2枚供えてある、銀杏のふもとで長いこと、 お菓子屋を営む横田さんは、「この大銀杏は、この辺りでは有名な目印で、私の店なんかに来る人には、赤羽橋から四方を見渡せば大きな 銀杏があるから、そのふもとが家だから・・・・・・・なんて教えればよかった。でも、最近は、電線に触れるといちゃ電灯会社が枝を下しに来るし、 随分小さくなっちゃって、冬なんか葉っぱがないから目印になりませんよ」と、いっていた。~
と記して街のランドマークでもあった当時の銀杏樹の様子を伝えていま
す。
しかし、残念ながら 今年(平成22(2010)年)2月24日、幹の空洞化による倒壊の危険があるとして、この銀杏樹は伐採されてしまいました。くしくも、その3月には鎌倉・鶴岡八幡宮の 御神木倒壊が報道され話題を呼びました。 

伐採された御神木
その後鶴岡八幡宮は、倒壊した銀杏樹の根本にあった子孫の若木を植え直して新しい御神木とすることとなったようですが、銀杏稲荷もパークコート麻布十番タワー建設により西北角地から南西角地への移転となるのを期に、傍らに御神木の子孫若樹二本を植え「新しい 御神木」としました。遷座式は平成22(2010)年6月に執り行われました。
三田小山町は現在、未曾有の再開発が進み、それまでの町並みが大きく変わろうとしています。これに伴い街の顔も住民も大きく変わることが 予想されますが、新しいコミュニティが今までと寸分変わらない地域的な価値観を持って二本の新しい若木の御神木を見守って頂けるよう願うばかりです。








遷座中の銀杏稲荷

新しい社殿

旧ご神木の子孫樹





























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