2013年4月20日土曜日

高野長英の隠れた麻布


麻布本村町辺
幕末の蘭学者、高野長英は「蛮社の獄」で渡辺崋山と共に罪にと問われ、脱獄、自刃という数奇な運命をたどりました。
文化元年(1804年)、奥州水沢で水沢伊達氏の家臣後藤家に生まれた長英は、9歳の時に父を無くし、翌年、母方の伯父である高野玄斎の養子となります。
17歳で兄の後藤堪斎に同行して江戸に遊学し、杉田玄白の養嗣子、杉田伯元の門下となり、その後蘭学を修めるため長崎に赴きシ-ボルトの鳴滝塾に入ることとなります。

ここでシ-ボルトに論文が認められ「ドクトル」の称号を授けられ翻訳に従事。しかしシ-ボルト事件が起こると長崎から逃亡し、しばらく身を隠します。その後広島、大阪を経て江戸に戻り麹町で開業、生理学の研究に従事することになります。

天保10年(1839年)長英36歳の時、渡辺崋山が「無人島渡航計画」により北町奉行に召還された事により同罪で追われた長英も、いったん潜伏したがその後、北町奉行所に自首し無実であることを弁明しました。容疑の取り調べが進む内に告発された内容はほとんど事実無根であることが判明しましたが、自宅から押収された著書での幕政批判の罪により両名とも有罪となり武士であった崋山は「在所蟄居」、士籍を離れた長英は百姓牢への永牢判決をうけることとなります。

入牢した長英は、その医術などから1年後には牢名主添役に、その翌年には牢名主となります。そして幕府に対してしきりに減刑運動を展開しますが、政治犯である長英には効果はありませんでした。
また牢名主となった天保12年(1841年)同じ罪で「在所蟄居」を命じられていた渡辺崋山は蟄居中の売画が幕府に露見し、藩公へ取り調べが及ぶ事を懸念して自刃してしまいます。その後も長英は赦免願いを出し続けますが、幕府に聞き入れられる事はありませんでした。

度重なる赦免願いを出し続けた長英も幕府に聞き入れらる事が無いと悟ると、やがて牢名主の立場を利用して脱獄する事を計画します。
弘化元年(1844年)6月29日深夜、以前から仲間に引き入れていた非人の栄蔵が、百姓牢に近い御ためし物置所に放火。この火災によって牢への類焼を恐れた牢屋奉行石出帯刀は、百姓牢囚人50人と揚座敷の囚人を「切放し」としたことから長英の脱獄計画は成功します。「切放し」とは牢が火災などにより危険となった場合、緊急的な措置として囚人を一旦放免し、三日以内に本所回向院か奉行所、の風向きによる集合場所に戻ると罪一等の減刑がある事をいいます。


麻布宮村町藪下辺(内田坂下)
この時の火災は町火消しが到着する前に非人などによって鎮火され、「切放し」が行われたのは百姓牢と揚座敷の囚人だけであったそうです。またこの時集合場所に指定された本所回向院に戻ってこなかった囚人は、座敷者一人、雑人6人とありその内の一人が長英でした。

脱獄した長英は上州を経て郷里の水沢に向かい、米沢に潜伏しその後弘化3年再び江戸に再潜入します。そして江戸では門人の数学者内田弥太郎をたより翻訳で生計をたてて妻子と共に麻布宮村町藪下の借家に暮らしました。

そしてちょうどこの年に、長英の脱獄のため頼まれて放火した非人の栄蔵が逮捕されその一切を白状したことから長英の脱獄計画が明らかになり、ただの火災による逃亡犯から、放火脱獄の政治犯という重罪になり再び探索が厳しくなります。そして同じ頃、長英の噂を聞きつけた宇和島藩主伊達宗城の密命をうけた宗城の側近の松根図書が宮村町に長英を捜し歩き、宇和島潜行の内命を伝えます。

長英は嘉永元年(1848年)3月20日江戸を後に宇和島へとむかいます。ここでは藩から兵書の翻訳で召抱えられ2年あまりを過ごしました。しかし宇和島潜伏が幕府に探知され、広島、名古屋を経由して再び江戸に潜入し、麻布本村町の土蔵付き差掛け小屋に妻ゆき、娘とも、息子かなめ、理三郎と共に落ち着きます。しかしやがて翻訳の継続で密かにつながっていた宇和島藩とも翻訳終了後は縁が切れ、生活に窮したために危険を承知で、青山百人町に移転し沢三伯の変名で医業を営むこととなります。

青山に越して三ヶ月目の嘉永3年(1850年)10月30日激しい風雨の夜、いきなり南町奉行所の同心が長英の家を襲いました。長英はこのような場合に備えて庭に貝殻や枯葉を敷き詰め、足音がすぐに聞こえるような細工をしてあったと言われますが、この日の激しい風雨で役に立たなかったようです。
刀を抜いて防戦しようとした長英も同心により囲まれ、ついに自害して果てたといいます。その後、12月21日、南町奉行遠山左衛門尉景元の詮議により彼の逃亡を助けた者9名の判決がおります。長安の死骸はこの判決まで塩漬けで放置され、判決がおりた当日千住小塚原に「取捨て」られ、その後回向院に埋葬されたといわれています。

長英の妻は押し込めを申し渡され、その後放免されます。長女は御家人であった叔父によって吉原に売られ、のちの安政大地震によって死亡したといい哀れを誘います。その他長英の男児達のその後についてはわかっていないようです。









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