2019年4月7日日曜日

③三田用水南里橋・今里地蔵


◎南里橋
南里橋付近

 三田用水が今里に入ってから3番目の橋、今里橋の下流。

【所属地名】芝区白金今里町・芝区白金猿町71
【構造種別】木造
【延長】2.727m
【幅員】3018m
【面積】8230㎡
【架設年月】昭和4(1929)年1月
【架設経費】137,728円
【川名】三田用水路

橋脇に今里地蔵が遷座したのは終戦後といわれています。








◎今里地蔵

今里地蔵は大正期に鈴木光三郎という鳶職が1915(大正4)年頃に上大崎一丁目辺のあぜ道でこの地蔵を見つけて、祠を作りお祀りした。
しかし1945(昭和20)年頃の道路拡張により移転を余儀なくされ、現在地に移ったとのネット情報がありますが、私がこの地蔵堂を清掃していた方に偶然お会いして伺った話では五反田田圃から白金猿町交差点付近。そして櫻田通り拡張のため現在地に移設....っとお聞きしたような気がしますが、記憶違いなのかもしれません。
いづれにせよこの地蔵堂がこの地にお祀りされたのは戦後の1945(昭和20)年以降となります。

★3Dさんぽ214Map
http://deepazabu.net/3D/sanpo/index.html

★3D檄坂Map-品川区・港区境界編
http://deepazabu.net/3D/kitasina-taka/index.html








 
今里地蔵右路地は三田用水流路
 






元禄今里地蔵碑
 






今里地蔵さま
 














地蔵堂前に安置された小さな地蔵尊










 
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2019年4月6日土曜日

②三田用水 猿町橋・日本家畜市場跡


★三田用水猿町橋
猿町橋あたり

・三田用水の橋
 今里に入ってから4番目の橋、南里橋の下流。

【所属地名】芝区白金猿町・今里町
【構造種別】単桁木橋
【延長】2.00m
【幅員】2.727m
【面積】5.454㎡
【架設年月】昭和4(1929)年2月
【架設経費】111,423円
【川名】三田用水

この猿町橋があったあたりには約200m先の「畠山記念館」の標識が建てられています。

◎荏原製作所・畠山記念館
 http://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/index.html



畠山記念館が所有する「細川井戸茶碗」は「喜左衛門」、「加賀」とともに「天下三井戸」と称される大井戸茶碗で重要文化財に指定されています。また、 この茶碗は麻布茗荷谷のくず屋正直清兵衛を始め正直者しか出てこない人情落語「井戸の茶碗」に登場します。

◎youtube-井戸の茶碗
古今亭志ん生
 https://youtu.be/5CHy2mfmtgs


町歩きは一番右の路地を進みます。


三田用水今里内の橋



細川井戸(畠山記念館サイトより引用)




★日本家畜市場
 東京初の屠殺場


日本家畜市場
今里に「屠畜場」が設置されたのは明治維新の1年前慶応三(1867)年で東京(江戸)で初めての食肉用の屠畜場が設置されました。
屠畜場が設置される前年の慶応二(1866)年、中川嘉兵衛は横浜から江戸に出てイギリス公使館があった高輪東禅寺付近に牛肉店を開業します。
しかし横浜の屠畜場から江戸間で肉を運ぶより江戸に屠畜場を設けた方が新鮮な肉を供給できるとして場所を探します。
これは交通機関の発達していなかった当時は横浜から牛肉を運んでも夏場などには腐ってしまうためです。
しかし、四つ足の動物を殺して食べるという行為から「土地の汚れ」を理由に貸し主は見つかりませんでした。
しかし、当時は江戸郊外の趣が濃かった白金今里の名主の堀越藤吉が畑の一部を提供することとなり、慶応三(1867)年五月この場所(現在の港区白金台二丁目)に屠畜場が開場します。そして併設して食肉販売二号店も開設します。
しかし、しばらくすると周辺住民から反対運動を起こされ中川嘉兵衛、はやむなく屠畜場を本芝へと移転し堀越藤吉に屠畜、各国公使館への牛肉納入権利、牛肉販売権を、今里の名主の堀越藤吉に譲渡して自らは別の事業に全力を傾けます。この譲渡は中川嘉兵衛と堀越藤吉が縁戚関係にあったからともいわれています。
これにより堀越藤吉が芝露月町に中川嘉兵衛の名前を借りて「牛鍋 中川」を開店し、繁盛店となります。そして屠畜場も再び白金今里に戻ります。
この本芝時代に屠畜場は一時官営化されますがやがて再び私営となります。この官営屠畜場時代に分離したのが麻布本村町の屠畜場でした。
実は中川嘉兵衛が始めた新しい事業とは、牛肉の長期保存を可能とする「製氷業」でした。
また中川嘉兵衛は江戸に出店する前にも横浜で異人向けの商売を展開しており、慶応三(1867)年横浜で発行されていた十月版の「万国新聞紙」第7集の広告に、
パン、ビスケット、ホットル
此品私店に御座候。御求め願い奉り候
横浜元町一丁目、中川屋嘉兵衛
とあり、パン製造の他に、ビスケット、そして牛乳なども製造していた事が知れ、中川(屋)嘉兵が衛時代の最先端を走っていたことがわかります。
また中川嘉兵衛に食品衛生上の製氷業の重要性を説いたのはヘボン式ローマ字の考案者ジェームス・カーティス・ヘボンでした。
眼病を患った中川嘉兵衛が診察を受けたのが医師で宣教師ヘボンでのちに明治学院大学初代総長となります。
そしてヘボンの影響から中川嘉兵衛はキリスト教プロテスタント信者となりますが、その際共に横浜の海岸教会で洗礼を受けたのが写真家の草分けである下岡蓮杖だそうです。
明治期の新聞記事は白金今里のニュースとして、
・1887(明治20)年3/31読売新聞朝刊
 屠獣場が本芝から白金今里に移転
・1892(明治25)年10/30朝日新聞朝刊
 牛疫発生による白金周辺の牛の通行遮断
・1894(明治27)年4/13読売新聞朝刊
(広告)日本家畜市場移転
・1901(明治34)年1/4読売新聞朝刊
 日本における牛肉食用の起源
 
 牛肉屋の開祖
 牛肉屋第二世
 
・1901(明治34)年1/5読売新聞朝刊
 日本における牛肉食用の起源
 初めて牛肉を喰うた人(福沢諭吉の名あり)
 牛鍋屋の光景
 肉食流行の時期
 牛肉屋増加の一因
 
・1903(明治36)年5/19読売新聞朝刊
渡世のいろいろ(29)牛肉商
・1980(昭和55)年11/27朝日新聞朝刊
20世紀の軌跡-すきやき
冒頭でお伝えしたAkiro Suzukiさんのコメント「当時の牛鍋店」の屋号には「今里ブランド」の牛を使用していることを
伝えるために「今」という字を使った屋号が多くあった。とのことでしたが書籍「明治・大正・昭和東京の料理店番附案内集成」
には明治期と思われる「牛料理店番付」が掲載されています。
それによると「今」がつく店だけでも、
東の横綱 神田錦町 今文
  大関 仲見世  今半
  関脇 芝口   今朝
  前頭 蛎殻町  今清
     竹川町  今源
西の関脇 馬喰町  今清
  前頭 東元町  今光
     淡路町  (中川)
     南茅場町 今半
     今川小路 今荘
     上野三橋 今松
行司  三田四国町 今福
勧進元  竹川町  今静
※中川だけは例外です。





と、全部が今里ブランドを唄った店名かはわかりませんが、それでもたくさんの牛料理店が「今」を冠していることがわかりました。
いづれ、この中川牛肉店に福沢諭吉が訪れていた痕跡など、何か見つかればご紹介したいと思っています。
この記事を書くきっかけを作って頂いたAkiro Suzukiには謝辞を述べさせて頂きます。ありがとうございました()/
今回をもって★散歩の続き.....①~⑬は終了とします。


※追記7/20

中川嘉兵衛を調べていたら「木村荘平」という興味深い人物を見つけました。

◎明治の豪傑“いろは”木村荘平
 https://ameblo.jp/yorkshare/entry-11800352281.html

◎Blog DEEP AZABU-三田育種場興農競馬場
    https://deepazabu.blogspot.com/search?q=%E4%B8%89%E7%94%B0%E8%82%B2%E7%A8%AE%E5%A0%B4%E8%88%88%E8%BE%B2%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E5%A0%B4















◎国会図書館近デジタルコレクション
 安愚楽鍋 : 牛店雑談 一名・奴論建. 初編
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882303/1
◎国会図書館近デジタルコレクション
 安愚楽鍋 : 牛店雑談 一名・奴論建. 2編 上,下
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882304/1
◎国会図書館近デジタルコレクション
 安愚楽鍋 : 牛店雑談 一名・奴論建. 3編 上,下
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882305/1
◎繰り返された「と場」の「廃止と移転」
https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/…/kus…/hpg000009945.html
◎東京開化繁昌誌. 初編 巻之下
 牛店繁盛 挿絵有り
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995163/2
◎芝浦と場発足までの変遷と役割
http://www.city.meguro.tokyo.jp/…/hens…/hensentoyakuwari.pdf
◎<第1回> 中川嘉兵衛と氷業のはじまり
 https://www.nichirei.co.jp/ko…/category/ice_history/001.html
◎wikipedia-ジェームス・カーティス・ヘボン
 https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%8…
<その他の参考書籍>
・近代日本食物史
・日本料理史考
・日本畜産史
・100年前の東京
・明治・大正・昭和東京の
 料理店番附案内集成
・読売新聞データベース
 ヨミダス
・朝日新聞データベース
 聞蔵Ⅱ



















日本家畜市場移転広告1894(明治27)年4/13読売新聞朝刊






東京市芝區全圖 : 明治四十(1907)年一月調査に描かれた
日本家畜市場、東京共有屠牛場、玉名池




















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2019年3月20日水曜日

①高輪台駅・猿町

出発集合場所の高輪台交差点
都営浅草線高輪台駅A2出口と交番

 現在の高輪台駅付近の相生坂(雉子ノ宮坂)は五反田へと下る坂ですが、坂上の旧町名「白金猿町」の由来の一つに「江戸を去る」の去るから猿への転訛とする説もあるようです。
別名:エテ町

もとは白金村のうち、増上寺領であった。午後4時を過ぎると辻切りや追剥ぎが出て人の往来がなくなったので、1651(慶安4)年に「商人町屋にしたい」と増上寺を経て願い出て許可された。1713(正徳3)年から町奉行支配となった。町人百姓入り組みの所である(砂子)。町名の由来は、白金台町を「去る」という意味で「去り町」と里俗に唱えたものが、自然に「猿町」と文字を書き替えたと伝える説(町方書上)、昔東海道の要路で南北朝期の頃、新田義貞が西に向かう時、武運を祈って帝釈天を安置したことから「申町」、つまり「猿町」になった(了真寺伝)とする説がある。「去る」の言葉を忌んで、「えて町」ともいった(港区史)。化政期(1804~1830年)の家数89軒、うち地主15・家主7・店借67。
了真寺

また、この場所は三田用水の最終地点でもありますが、その後余水は南へ向かい目黒川に落ちるものと、細川用水と共に北行し三田台の尾根を伝って聖坂を下り、薩摩藩三田屋敷の周囲を流れてから入間川→重箱堀と流れたものがあるようで、現在の芝小学校には芝西応寺で出土した当時の「木管」が保存されています。


そして、白金猿町の隣には品川台町と記載されていますが、坂途中の雉子神社あたりは、池波正太郎の小説必殺仕掛け人の主人公「藤枝梅安」の住居として設定されています。


★品川台町住民の仕掛人・藤枝梅安
昨日録画消化で映画「必殺仕掛人 梅安蟻地獄-1973年(昭和48年)9月29日公開」を鑑賞。
相生坂
白金台交差点より五反田駅方面へと下る坂
原作は「鬼平犯科帳」「剣客商売」などの池波正太郎ですが、この映画は原作を少しひねったスピンオフのようです。
しかし映画の中で緒形拳分する梅安がいきなり切りつけられたときに発する台詞が、
「だれだ! 私を品川台町の藤枝梅安と知ってのことか?」
っと叫ぶシーンがあり、改めて原作「仕掛人・藤枝梅安 第1話-おんなごろし」を読むと下記の記述があります。
~引用はじめ~
品川台町の通りを南へ下った左手に、「雉子の宮」の社がある。ものの本に、
「このあたりは北品川領、大崎という。慶長ころ、将軍家御放鷹のとき、この社へ雉子一羽飛び入りたり。そのとき神名を問わせられしに、このあたりの百姓たち、山神の祠なるよし申し上げければ、以後は雉子の宮と唱え申すべきむね、上意ありてより、かく号くるという」
などと、しるしてある。
別当は宝塔寺といい、丘の上の社殿を仰ぐ鳥居の右手に、その本堂が在った。
鍼医者・藤枝梅安の家は、この雉子の宮の鳥居前の小川をへだてた南側にある。
わら屋根の、ちょっと風雅な構えの小さな家で、こんもりとした木立にかこまれていた。
~引用終わり~
この「雉子の宮」は昔と同じ国道1号線櫻田通りの高輪猿町(現在の都営浅草線高輪台駅)からJR五反田駅へと下る相生坂途中ににあり、裏手には江戸期まで雉子の宮の別当寺であった宝塔寺も現存しています。
高輪台交差点猿町付近
また文中にある「鳥居前の小川」は三田用水が今里村(現在の港区立白金幼稚園)あたりで分離した余水で、正確には川というより水路であったようです。
この川筋は現在も道路として残されており櫻田通りをトンネルでくぐって上流のNTT関東病院傍から流れていたようです。
そして梅安の家は(って、そもそもフィクションなんですが)雉子の宮から少し下った櫻田通りの中央分離帯あたりと想像しています。
つまり、「仕掛人・藤枝梅安」は品川住民であったようです(って、フィクションですが(^_^;)
このあたりは以前島津山の檄坂でご紹介したあたりにもほど近く、ちょうど島津山と池田山の分離点になります。
しかし江戸期には島津山と呼ばれていようはずもなく(島津家が現在の清泉女子大学の地に屋敷を構えるのは明治期)仙台藩伊達家の屋敷が高台にありました。
また以前島津山山荘通路でご紹介した寿昌寺も梅安宅の近隣で江戸期のこの寺には「時の鐘」が設置されていたようですのでこの鐘の音の描写が小説に現れるのが楽しみでしょうがありません。
余談ですが、檄坂でもお伝えした港区・品川区南端境界はこの相生坂上あたりにありますが、この境界もやはり江戸期に設定された江戸町奉行の職務範囲を表す「墨引(すみびき)」が基準となっているようです。


GoogleMap白金台町歩き

3Dさんぽ214Map

wikipadia-雉子神社

wikipadia-藤枝梅安

◎Blog DEEP AZABU-鬼平犯科帳の麻布
 https://deepazabu.blogspot.com/search?q=%E9%AC%BC%E5%B9%B3



江戸期→現在対比図







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2019年3月18日月曜日

★ 白金今里探索-まとめ










①高輪台駅・猿町

②三田用水猿町橋・日本家畜市場

③三田用水南里橋・今里地蔵

④三田用水遺構

⑤白金台3丁目遊び場

⑥今里橋の欄干

⑦常光寺・福沢諭吉埋葬地

⑧上今里橋

⑨伝染病研究所(伝研)→
東京大学医科学研究所(医科研)
近代医科学記念館

⑩国立公衆衛生院~ゆかしの杜
   港区郷土歴史館

⑪自然教育園と白金長者柳下氏(解説のみ)

⑫八芳園(解説のみ)

聖心女子学院正門

⑭服部ハウス(戦後史)

⑮三光坂

⑯西光寺・几号水準点

⑰梅が茶屋

⑱白金氷川神社(三氷川直列)

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A.四の橋・狐しるこ
 (麻布七不思議)

B.夏土用丑の日考
  (狐鰻の由来)

C. 麻布の橋-その2-3 字雷神下とその周辺

D.麻布の橋-その2-2 狸橋とその周辺 三田用水白金分水と梅屋敷の福沢諭吉水車

E. 麻布の橋-その2-1 狸橋とその周辺 狸橋と狸蕎麦



 
F.慈眼山光林寺
ヒュースケン・伝吉墓所

ヒュ-スケン事件


ヒュ-スケン事件-その2


伝吉刺殺事件

G.富士見町グラバー邸

★トーマス・グラバーと港区(その-1)